読書メモとか、なんか書きます。

読書メモとかを書きたいと思ってます。読みたいけど持ってないもの、乞食しておきます。https://www.amazon.jp/hz/wishlist/ls/38X64EIBO2EJ?ref_=wl_share

思考メモ 義務と意志と現実の一致について

 カントの言う「てめーの意志(の格率)が常に同時に義務(普遍的立法の原理)として妥当できるように行為せーよ」という道徳法則の根本原理は、意志と義務の一致を要求し、さらに意志と義務が一致し得るように行為することを要求する。

 つまり、ここで道徳法則は「義務を自らの意志として採用すること(or自らの意志が義務足り得るという確信を得ること)」だけではなく「行為を通じて意志を現実とすること」も要求していることになる。

 前者は、多分ブラックボックス的なところがあって、その答えは「問い続けるしかない」というある意味では凡庸な回答しか与えられない気がするけども、後者については単なる道徳哲学を超えた含意があるんじゃないか。

 例えば、困っている人はみんな助けるという義務を自らの意志として採用するとして、その義務を実現するためには現実的に数多くの障害がある。そもそも全ての人間が同じ人間ではないわけで、自分と同じ関係を築いているわけでもない。家族や友人が困っているとすぐに助ける人は、地球の裏側で困っている人を助けないことを責められてもその人が困る。要するに義務を果たそうしても、それが可能な現実的な状況があるかどうか、これは義務と意志が単純に一致するかどうかとはまた別の話。

 最近の話題だと、ジェンダーギャップの解消について。男女を等しく扱うことが義務だとしても、それを実現するために行為することが難しいのは、多くの場合、行為する人がその意志を持っていないからではなくて、意志を実現することが可能な社会状況にないからに思える。もちろん、それが可能な社会を実現するために様々な方策を取るべきではあるけれども、そのために例えばアファーマティブ・アクションを実施することは、少なくとも見かけ上は男女を等しく扱っていない(だから「逆差別だ!」という反発も起きる)し、それが男女を等しく扱うことに繋がるのかは一概に言えない。この義務を実現するために必要なのは、立場によっては「逆差別」と言われるような取り組みなのかもしれないし、単純に男女の区別を捨象してフラットな目線で考えることかもしれない。だから、その主張の妥当性や説得力を棚に上げておくとすれば、くそでかおっぱいアニメキャラのボスターに憤る人がいてもいいし、弱者男性の立場から子育て支援に税金が投じられることを批判する人がいてもいい。

 あるいは、動物倫理の話。動物を食料として扱うことは悪かもしれず、それが常態化している社会は克服するべきかもしれない。けれども、現状全ての人が苦労することなく動物食を避けることは難しく、その実現のためには個人に多大な苦労を強いることになるかもしれない。簡単な話、みんなが気軽に動物食をやめる事が出来る社会環境は現状整っていないかもしれない。そう考えるなら、動物食をやめることが道徳的義務であっても無理に強制することは出来ないし、動物食をやめるべきと考える人が部分的に動物食をすることは許容されるだろう。

 この問題には、多分徳の倫理が関わってくる。あと、実践理性の弁証論の議論が関わってくる。やっぱりカントをちゃんとやらないといけないという気がする。この2つは、手をつけかけて横道に逸れて博論を書いてしまったので、少し悔やしい。でも、現実がそれを許さなかったので仕方ない(こういう言い訳にも使えます!)。

 この辺の話は修論でも博論でも大いに参考した川島秀一先生の議論にそのまま乗っかっている気がする。また繰り返し読まねばならない。

中川優一(2020) 「産むことと生まれてきたこと ― 反出生主義における「出生」概念の考察」

 今回の論文は以下の通りです。

 中川優一(2020) 「産むことと生まれてきたこと ― 反出生主義における「出生」概念の考察」『現代生命哲学研究』第9号 、pp.54-79

 著者は変わりましたが、今回も『現代生命哲学研究』から反出生主義まわりの論文を。ベネターを代表として近年注目が集まる反出生主義ですが、「出生」という概念が反出生主義としてまとめられる主張を十分に表現できるものか、検討しているものです。

続きを読む

森岡正博(2020) 「リヴカ・ワインバーグの出産許容性原理について ― 生命の哲学の構築に向けて(11)」

今回の論文は以下の通りです。

森岡正博(2020) 「リヴカ・ワインバーグの出産許容性原理について ― 生命の哲学の構築に向けて(11)」『現代生命哲学研究』第9号、pp.80-88

 前回に続き、森岡正博さんの「誕生肯定」論にかかわるものですが、こちらの論文は直接的には「生まれてこなければよかった」という反出生主義の文脈に近そうです。「生まれてこなければよかった」という主張は、その延長として「これからも産むべきではない」という主張に繋がり得るものですが、両者は別ものです。本論文は、後者の「出産否定」の考えに対する、「出産許容性原理」を紹介、検討するものです。

続きを読む

森岡正博 (2016)「「誕生肯定」と人生の「破断」を再考する ― 生命の哲学の構築に向けて(8)」

 今回のまとめは以下の論文です。

森岡正博 (2016)「「誕生肯定」と人生の「破断」を再考する ― 生命の哲学の構築に向けて(8)」『現代生命哲学研究』第5号、pp.13-27

 今回も、森岡正博さんの「誕生肯定」論と関係する内容、というよりは以前の議論を補う内容になっています。「破断」を中心とはしていますが、「誕生肯定」論全体にも多少のアップデートが見られます。

続きを読む

森岡正博(2015)「「人生の意味」は客観的か-T・メッツの所説をめぐって ― 生命の哲学の構築に向けて(7)」

 今回のまとめは以下の論文です。

森岡正博(2015)「「人生の意味」は客観的か-T・メッツの所説をめぐって ― 生命の哲学の構築に向けて(7)」『現代生命哲学研究』第4号、pp.82-97

 サディアス・メッツ(Thaddeus Metz)『人生の意味:分析的研究(Meaning in Life: An Analytic Study)』を批判的に検討しながら、「人生の意味」の問題を考察するものです。たびたび触れている「誕生肯定」論とも関係してくる内容かと思います。

続きを読む

吉本陵(2014)「人類の絶滅は道徳に適うか? デイヴィッド・ベネターの「誕生害悪論」とハンス・ヨーナスの倫理思想」

 論文の場合は、読んだものごとにまとめ記事作ったほうがやっぱりいいかなーということで今回から形式をちょっと変えました。
 試行錯誤でね、やっていきたいですね。文献リスト記事も作成しないと。いつか。

 さて、今回は以前の記事で触れた将来世代産出義務の議論から続くような、以下の論文です。


吉本陵(2014)「人類の絶滅は道徳に適うか? ― デイヴィッド・ベネターの「誕生害悪論」とハンス・ヨーナスの倫理思想」『現代生命哲学研究』第3号、pp.50-68


 簡単にまとめていきます。今回から引用文はページ数のみ記載します。

続きを読む

読書メモ2 森岡正博他「生命の哲学の構築に向けて(1)」他、論文5本(3/3)

 今回の3本目、ラストです。読んだ論文と、3本に分けたテーマは以下の通り。

森岡正博、居永正宏、吉本陵「生命の哲学の構築に向けて(1):基本概念、ベルクソン、ヨーナス」『人間科学 : 大阪府立大学紀要』2007, 3, p3-68
 (このうち、森岡「第一章 生命の哲学とは何か」のみ)
森岡正博、吉本陵「将来世代を産出する義務はあるか?:生命の哲学の構築に向けて(2)」『人間科学 : 大阪府立大学紀要』2008, 4, p57-106
森岡正博「誕生肯定と何か:生命の哲学の構築に向けて(3)」『人間科学 : 大阪府立大学紀要』20011 8, p173-212
森岡正博「「生まれてこなければよかった」の意味:生命の哲学の構築に向けて(5)」『人間科学 : 大阪府立大学紀要』20013 8, p87-105
森岡正博「「産み」の概念についての哲学的考察:生命の哲学の構築に向けて(6)」『現代生命哲学研究』20014 3, p109-130

1/3 将来世代の産出義務について
2/3 「誕生肯定」論について
3/3 「産み」の概念の検討

 今回は森岡正博による「産み」の概念検討をまとめます。ちょっと、1回のまとめが重すぎる感じになってるので、次回から形式を変えようと思ってます。へたくそか。

続きを読む