読書メモとか、なんか書きます。

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読書メモ1 居永正宏「「産み」の哲学に向けて(1)」他論文5本

 前回のブログ投稿から1年以上も経ってます。どうも、僕です。

 違うんですよ、奥さん。妻が妊娠したり、コロナ禍になったり、子どもが産まれたり色々あってね……結局、怠け者なんですけど。

 今年は少し勉強しようかな、ということで3が日明けから読書をしています。日中はなかなか難しいので寝る前の1~2時間ですけどね。少しずつ、今の生活の中でリズムが出来ていくといいなぁ。

 せっかくなので定期的に読書メモを残しておこうかと。週末にまとめながら進めていこうかと思ってるんだけど、今回は日曜に諸事情*1があり、遅れました。いつまで続くかずいぶん怪しいですが、まぁ出来るだけ無理せずやりたいなと。

 

 読書メモを始める前に、現在の興味関心を書いておきます。

 やはり子どもが産まれたので、子どもを産み、育てていくということに関して考えたいということが一番です。僕は34歳の誕生日に同じ年の妻と結婚し、36歳の誕生日一か月前に娘が産まれました。いわゆる結婚や妊娠、出産の「適齢期」からすると随分遅いものになります。

 「適齢期」なんてくだらない!いつ結婚しても、妊娠してもいいじゃないか!そう思ったテレビの前の君!僕もそう思う。

 ところが、そう簡単に切り捨ててはおけないところがあります。結婚はともかく、妊娠・出産に関しては、女性の生殖年齢にはタイムリミットがあるという言説で溢れています。妻は随分そうしたものに悩まされてきました。それが単に怪しいネット上記事にしか書かれてないならいいですが、病院のHPとかに普通に書いていたりするので困ったものです(もちろん、医学的根拠はあるのでしょうが)。

 

 是非はさておき、ひとまずこの前提(妊娠・出産には適齢期orタイムリミットがある)を受け入れたとして、では20代くらいで妻と結婚し、子どもを産んでいたとして、果たして今と同じように妻や娘に向き合えていたのか、ということをよく考えました。

 これはほぼ確実にありえないだろうな、というのが僕と妻の共通見解です。20代の自分は基本的に自分のことしか考えていなかったですし、育児はもちろん、結婚生活さえすぐに破綻したのではないかと思うほどです。

 というよりは、妻と出会って二人で暮らし始めることで*2、自分のことしか考えない人生が変わった、というのが正しいのでしょう。それは妻と出会えたという奇跡的な幸運が大きかったでしょうが、僕自身なりに経験を積んで成熟していたということでもあるのかと思うのです。

 

 要するに、「妊娠・出産は、生物的に最適な成熟時期と社会的または精神的に最適な成熟時期が全く異なるんじゃないか」という実感が、この問題を考えようと思ったきっかけとしてあります。

 これについて、あれこれ考えることはまだ出来ないのですが、その辺の問題を、僕が今まで稚拙ながらも身に着けてきた知識とも接続させるような感じで、考えを進めていけたらなぁ、と。それを趣味にするのもいいのかな、とそんなことを考えています。

 先週は、その辺り哲学的に考察している論文を読んでいたので、そのメモを以下にまとてみます。文章書くのもリハビリやね。

 

 

 今回読んだ論文は以下の5本です。

 

居永正宏(2014)「「産み」の哲学に向けて(1):先行研究レビューと基本的な論点の素描」『現代生命哲学研究』第3号 88-108

居永正宏(2015a)「「産み」と「死」についての覚え書き:弔いを手掛かりに 「産み」の哲学に向けて(2)」『現代生命哲学研究』第4号 28-38

居永正宏(2015b)「フェミニスト現象学における「産み」をめぐって:男性学的「産み」論の可能性」『女性学研究』22 99-126

居永正宏(2015c)「「産み」を哲学するとはどういうことか――哲学と経験」『倫理学論究』vol. 2, no. 1 12-26

居永正宏(2016)「産みの人称性と性的差異:「誕生肯定」再論としての「産む男」試論 「産み」の哲学に向けて(3)」『現代生命哲学研究』第5号 1-12

 

 一連の論文は、「産み(recreation)」*3の哲学的な考察、あるいはその準備を目的とする。度々述べられているように「産み」の哲学的研究に関する先行研究の乏しさもあって、著者による「産み」の哲学はその端緒が開かれたばかりという印象が強いけど、関連する興味深い文献の示唆を得ることができ、問題意識や着眼点に共感できるところも多かった。手に入れやすいということもあって、入り口として非常にありがたい。

 今回は各論文を順番にレビューしていくのではなく、これらの諸論文から読み取れる論点や「産み」を哲学的に問う著者の観点をピックアップしながら、現時点での自分の考えや関心をまとめたい。

 具体的には以下の3点を中心にまとめていく。

  1. 先行研究の検討
  2. 「産み」と「死」の関係
  3. 男が「産む」ということについて

1.先行研究の検討

 まずは、各論文で参照されている先行研究から比較的重要と思えるものを簡単に挙げながら、ポイントをつかんでいきたい。前述したように、「産み」の哲学的考察に関する先行研究は乏しいことが度々指摘されている。その中で、比較的重要なものとして、アーレントの政治哲学(特に「始まり」論)をベースとしたもの(居永2014,2015a)、レヴィナスの他者論をベースとしたもの(居永2014)、フェミニスト現象学(居永2015b)、マルクスの流れを組むカナダのフェミニストであるメアリー・オブライエンの生殖論(居永2016)、「誕生肯定」に関する議論(居永2016)を挙げる。*4

 

アーレントの政治哲学、レヴィナスの他者論

 これらの議論そのものは射程がとても広く、単に先行研究であるだけではない基礎文献だ。僕自身も全く読んだことがないわけではないが、そもそもいつ読んだっけ?という話にならないレベルなので、きちんと検討するためには時間がかかる。居永(居永2014)ではこれらの理論に依拠し「産み」(あるいはそれに近いもの)を考察する先行研究が検討されている*5。端的に要約すると、(アーレントに基づいて論じ得る)産まれたものと私たちの関係をきちんと位置付ける考察と、(レヴィナスに基づいて論じ得る)「産み」というものが何かを問う考察が共に「産み」の哲学に含まれるべきだ、というのが居永の考えだ。この議論は「私が産むこと」「時間の他者」「共同性」という重要な3つの要素に関わっている。

 居永は「超越論的な他者が経験的な私から生まれるという法外な事態の認識」を放棄するような議論を批判し、「産みとはまずもって私が他者を産むことであり、それが「産み」の哲学の第一の主題」と考える(居永2014, 101‐102)。つまり、産みの経験から乖離した抽象的な思考では「産み」の哲学は成り立たないということだろう。全く同意だが、(僕自身もそうだが)男性である居永には素朴な意味(生物学的な妊娠・出産が不可能であるという意味)で産みを経験することができない。よって、男にとっての「産み」をどのように考えるのか、という問題が重要な論点となる。

 また、私が産む他者とはどのような存在か。簡単に言ってしまえばそれが「時間の他者」ということだが、居永はそれを成り立たせているのが「私たちの時間的有限性、すなわち死である(Ibid., 102)」と考える。「産み」と「死」の関係も重要な論点となる。

 さらにこの「時間の他者」は単に外部から到来する存在ではなく、私たちは何かしらの共同性をもってこの他者と関係しているとされる(Ibid., 103‐104)。今回読んだ各論文においては「共同性」という観点を中心とした議論は見られないので、ひとまず頭の片隅においておくのみにする。僕としては、自らが産んだ他者が外部から到来するような存在として現れる可能性が産みの営みに中には潜在していて、何かしらの形でそれを考察する必要があると思っている。

 

フェミニスト現象学

 産みの経験に基づきながら考察をすすめるという点で、フェミニスト現象学は「産み」の哲学において重要な先行研究だ。居永(居永2015b)は概観を踏まえた上で、ボーヴォワール第二の性』から受動的な考え(身体は足枷であり妊娠出産はその一例と考える)と能動的な考え(妊娠出産を自分自身のものとする可能性を示す)という相反するようにも見えるものが両義的状況の二側面であり、「フェミニスト現象学の産みをめぐる探求は、ボーヴォワールが素描したこの能動と受動の両義性をいかに捉えるかについての様々な変奏だといってもよい(Ibid., 109)」と述べている。これは非常に重要な指摘に思える。

 その他参照されているフェミニスト現象学における個々の議論についてここでは触れないけれど、居永はこれらの議論がほぼほぼ妊娠を産みの出発点とすることを指摘し、(生物学的には妊娠ができない)男性を巻き込んだ男性学的な「産み」論の重要性を指摘する(Ibid., 114‐116)。フェミニスト現象学はどうしても女性学的な側面が強いと思われるが、その議論を参照軸としながら男性学的な考察をするのが目的と言っていいだろう。

 個人的に気になったのは、居永の視点から「授乳」という経験が零れ落ちている気がすることだ。授乳は妊娠や出産と同様に女性特有の経験であり、産む存在と産まれる(た)存在の強い身体的結びつきが表現されている営みだと思う*6フェミニスト現象学の議論の中にも授乳という経験に関する考察は当然あってよさそうなものなので、この点注目に値すると思う。

 

・オブライエンの生殖論、森岡正博の「誕生肯定」論

 オブライエンの生殖論は僕自身の関心からすると最も興味深い。元々、この問題に興味を示したときにオブライエンの著書をたまたま見つけたのだけど、概略を確認して必読書ではと考えていた*7ので。ここではオブライエンの理論がさほど詳細に検討されているわけではないので、今後勉強していきたい。

 森岡の「誕生肯定」論は、文字どおり私が産まれてきたということをいかにして肯定するのか、という議論だ。これに関しては、森岡と居永の間で過去に議論が交わされているようであり、居永はこの再考をオブライエンの生殖論とつなげて展開している。その概要は、重要な論点に深く関係するところなので後述する。

 

 以上から、居永による「産み」の哲学のポイントがいくつか見えてきたように思う。その中から、「産み」と「死」の関係について、もう少し細かい議論に触れておきたい。

 

2.「産み」と「死」の関係について 

 居永の「産み」と「死」を関連するものとして捉える発想のエッセンスは、おそらく以下の言葉に詰め込まれている。

産みという営みが最終的に目指すのは、この世界を引き継ぐものに「あとはよろしく」と言って死ぬことができる、ということではないか(居永2014, 103)

 産みの営みにおいて私たちは他者と関係するが、それは私たちの死後にも生きる他者(「時間の他者」)で、かつ私たちが死ぬ際には「あとはよろしく」と言えるような関係が築かれた(「共同性」をもった)他者だ。

 この発想自体に問題はないと思うが、「あとはよろしく」という言葉の意味についてはかなり手の込んだ考察が必要に思える。この点はおいおい考えていきたいところだが、今回は「産み」と「死」の関係における2つの議論をまとめておく。

 

・「産み」と「弔い」

 居永は「弔い」を手がかりにして「産み」と「死」の関連を考察している(居永2015a)。ここでは、それぞれに生物学的な次元(生物学的な出生、生物学的な身体の死)と独在的な次元(「私」という唯一無二の存在が世界に現れる=無からの出現、「私」という唯一無二の存在が消滅する)があり、その間に私の他者の法外な二元性が立ち現われると考える。「産み」においてそれは親と子の関係であり「狭義の産み」とされ、「死」については生者と死者の関係であり「弔い」である(Ibid., 31‐32)。

 「産み」と「死」について、生物学的な次元と独在的な次元が分けられるのはよくわかる。また、それらと区別されるものとして他者と関係する法外な二元性の次元が存在するという考えもわかるが、この次元が生物学的な次元と独在的な次元の間にある(両者をつなぐ?)ものと言えるかはやや微妙に思える。おそらく、こうした法外な二元性こそ、私たちの「産み」や「死」という営みの根幹を為すものだという発想が居永にはあるのだろう*8

 さらに、居永は「狭義の産み」と「弔い」は同じことではないかと考え、両者の内的関連を考察する。それによると、「狭義の産み」は「自らが産んだものによって弔われることによって完結する営み」であり、「自らを産んだものを弔うこと」が「弔い」の本義である(Ibid. 34)とされる。

 これは冒頭の「あとはよろしく」をより厳密に整理したものと言える。僕としては、以下の図式(Ibid. 35)がとても分かりやすいと思う。

親/死者‐(産み/弔い)‐私(子供/生者:親/死者)‐(産み/弔い)‐子供/生者

 要するに、親と子の関係は生者と死者の関係と重ね合わせることが可能なのだろう。これは言われてみると当然に思える。産まれる(=弔う)私は子(=生者)として産まれ(=弔い)、産む(=弔われる)私は親(=死者)として産む(=弔われる)からだ*9

 

・「産み」と「死」における人称性

 「産み」と「死」の関係を論じるのが「弔い」を中心とした議論だったが、人称性という観点からの議論は「産み」と「死」の違いが述べられる(居永2016)。そこでは、ジャンケレビッチの議論における「死」の人称性がすべて単数であるため、その対極として「産み」の人称性を考えることはできない(「産み」は他者と関係するため単数ではありえない)、つまり「産み」は「死」の応用問題ではないとされている(Ibid., 2‐3)。

 ここでは特に扱われていないが、「弔い」は明らかに複数の人称性を持つはずなので、一見すると議論が後退している気がしないでもないが、これは「産み」と関連させて「死」を捉えたときに現れるのが「弔い」である(あるいは関連させることで「弔い」の本義が明らかになる)、という考えとして理解するのが適切なのだろうと感じた。

 「産み」を人称性という観点からとらえたとき、一人称、二人称の領域においてその特徴が現れる*10。私はともに「産み」を営むパートナー=「あなた(二人称単数)」と出会い、「私たち(一人称複数)」となり、産んだ子ども=「あなた(二人称単数)」と出会い、また子どもを含めてともに「私たち(一人称複数)」となる。このように一人称と二人称は互いに表裏一体となって成立している(Ibid., 3‐4)。そして、「産み」における複数性は「異質的(heterogeneous)な複数性」である(Ibid., 4)。それは一つには親と子の複数性で、もう一つは性的差異における複数性だ*11

 親-子関係が死者ー生者関係と重ね合うのではないか、という着眼点は面白い。ここから「あとはよろしく」という考えが導かれると思うが、その詳細に関してはさらに深い議論の余地があると思う。「産み」に内在する異質な複数性をどう考えるか、ということは別に「死」と比較しなくとも出てくる気がしないでもないが、重要な問題に思える。次はこの問題についてみていきたい。

 

 

3.男が「産む」ということについて

 「産み」が異質な複数性を内包するということ、その1つの側面が性的差異にあるということは、僕や居永のように生物学的に産むことが可能ではない男性にとって、男が「産む」ということはどういうことか、それをどのように考えればいいのか、という問題として現れてくると考えていいと思う。最後に、この問題に触れておきたい。

 

・男性の疎外とその克服

 この問題について、居永が示す一つの議論は、オブライエンの生殖論で示された男性の疎外を「誕生肯定」論によって克服しようとするものである。

 オブライエンの生殖論を参照されている限りで簡単に要約すれば、男は産みの営みから疎外されており、それを回復するために家父長制(男による産んだ女と産まれた子どもの占有)が形作られてきたというものだ。このまとめはあまりに乱暴すぎるが、オブライエンの認識は概ね正しいように思える。居永もオブライエンの批判的分析には同意しているが、男と産みの関係については男による占有ではない可能性を問うている(居永2016, 7)。

 居永自身は、この可能性に「誕生肯定」の議論を再考することで応えようとする。要約すると、居永が批判対象とする森岡正博の「誕生肯定」論*12は、「人はまず自分が生きてきた人生全体を肯定し(人生肯定)、その後で、それに基づいて自分が産まれてきたことを肯定する(誕生肯定)」というものだが、居永は人生肯定は「私が生きてきたことを私自身が肯定すること」であり、誕生肯定は「私から産まれたものに対して私がその誕生を肯定すること」だと考えている(Ibid., 8‐9)*13。簡単に言えば、私の人生肯定は私にしかできないし、一方で誕生肯定は私にはできない(私が産んだものにしかできない)ということだ。私は自ら産んだものに対して誕生肯定が可能であり、それが成し遂げられることで男性の疎外も回復(あるいは克服)されると考えられていると思われる。

 「誕生肯定」論に関する居永の主張は全く持って正しい気がするが、それによってオブライエンが分析するような男性疎外の回復(あるいは克服)となるかは疑問が残る。これはオブライエンの議論をもう少しきちんと理解して考えるべきだが、少なくとも、自分が産んだ存在の誕生を肯定する、ということだけが男性の疎外の回復を可能にするようには思えない。

 また、そもそも僕としては「誕生肯定」論そのものがいまいちピンとこないところがある。誕生は、そもそも肯定したり否定したりするものなのか。この点は、また機会を改めて考えたい。

 

・「産み」の経験について

 男性が「産む」ということについて、今回の諸論文からは残念ながら他に目ぼしい議論がないが、その経験をどう捉えるか、ということは重要な問題に思える。。

 居永は「 「産み」を考察しようとする男性哲学者にとっては、まず「産み」を自らのものとして経験した上で、それを哲学的に捉え直すという、 二つの 重なり合う課題が課される(居永2015c, 21)」と指摘しているが、男性(哲学者)が「「産み」を自らのものとして経験」するとはどういうことか、という問題が残る*14

 これはそもそも「産み」の経験とは何だろうか。男性と女性では経験の内実が決定的に違っていて、特に男性にとってその把握がより困難だとは思うが、女性であれば自然と把握できるというわけではない*15。例えば、僕の妻は帝王切開で娘を出産しているが、彼女は通常分娩での出産ではなかったことへの後ろめたさを語ることがある。これは、妻が「私の出産は「産み」ではなかったのではないか」という疑問をいだいているとも言えるだろう*16。こうした例は他にも枚挙にいとまがないだろう*17

 素朴な疑問として、ここでてんかいされている「産み」の哲学が、どのような問題意識から出てきたものなのか、少しピンとこないところがある。男性であるにも拘わらず「産み」という問題を主題化するに至ったことに、どのような経験的な契機があるのだろうか、とどうしても考えてしまう*18

 僕自身は、娘が産まれたことにより、オブライエンの言うように男性が「産み」という経験からどうしようもなく疎外されている、ということを痛感している。例えば、娘に対する身体的共感に、僕と妻とで決定的な差があると度々感じざるを得ない。言ってしまえば、妻は未だに娘が自分の身体の(あるいは存在の)一部であるという感覚を、僕よりもかなり強く有しているように思う。ただ、だからと言って僕は妻が一人で娘を産んだと感じるわけでもない。娘は確かに2人で産んだのだ。

 少なくとも僕にとって、これらの諸論文からは「「あとはよろしく」と言って死ぬことができる」というイメージの実像が見えてこなかった。何故ただ死ぬだけではなく「あとはよろしく」と言うのか、それこそが「産み」だという実感を居永は得ていると思うのだが、それはどのような経験や問題意識を契機としているのか。その辺りが見えてくれば、萌芽的な「産み」の哲学を、より豊かに読むことができるように思う。

 

 

 以上、雑多にメモを残してきた。今回はこの辺りで終わりとしたい。今週は、居永の議論の前提にあると思われる、森岡正博の「生命の哲学」に関する論文をいくつか読んでいるので、またまとめることにする。その中で、今回触れた「誕生肯定」の議論にも再び出会う。

 少しずつ、学びを深めていければ幸いだ

*1:詳しくは日記参照。全然詳しく書いてないけど。

*2:結婚はたまたまの結果であって必要なものではありませんでしたが

*3:「産み(recreation)」という言葉を使用する意図については、居永(2014)の第2章第1項を参照。要約すると①身体性を強く含む②「産むもの」と「産まれるもの」という二元性が必ず生じる③誕生の瞬間や生殖的プロセスに集約・還元されず、時間的な幅を持った人間的関わりの中でなされる、という3点。

*4:また、これらの周辺にある、あるいは前提となるものとして、ハイデガーの「死」を中心とした哲学、フーコーの政治哲学、メルロポンティの現象学的身体論、精神分析系の言説を中心としたフェミニズム理論などが挙げられる。

*5:具体的には、檜垣立哉『子供の哲学』(レヴィナス)、加藤秀一『〈個〉から始める生命論』(アーレント)などである。同時に小泉義之『生殖の哲学』も検討されているが、本書の意義はここであまり大きくはないように思えた。

*6:居永は人工子宮などの技術によって女性を産みから解放すべきである、あるいは逆に遺伝子操作などの技術によって男性の身体も出産可能なものに改造すべきである、というラディカルな主張を紹介している(居永2015c, 16)。これらの主張は妊娠・出産に着目する限り非現実的だが、授乳に関しては既に現実的に、人工のミルクが母乳の代替として(完全ではないにしても)機能しているといっていいと思える。この点からも、授乳という経験は注目に値する気がする。

*7:邦訳はないし、原書は職場の図書館にもなかったので読んでません……誰か恵んでください。(自分で買えや)

*8:生物学的な出生や死、独在的な「私」の誕生や消滅は、この根幹に基づいて「産み」や「死」の営みに現れる一つの局面と考えれば、確かにそれぞれの次元の間にあると言えなくもないかもしれない。

*9:私がこの場合と親の場合で受動と能動が逆転している点がポイントかもしれない。なお、「弔う」「弔われる」を「死なれる」「死ぬ」と言い換えることもできるだろう。この場合は受動と能動が一致するので、もしかしたら単に「生」と「死」を重ねて論じるならば、こちらのほうが適切かもしれない。

*10:なお、三人称の領域においては「産み」も「死」も統計的な数字に回収されていくものとされる。これは「弔い」の議論で挙げられた生物学的な次元と、ほぼほぼ重なると言えそうだ。

*11:「弔い」を射程に入れれば、「死」についても前者の異質的な複数性は「死」においても同様の指摘が可能だが、後者は問題とならないだろう。

*12:ただし、これは居永の記述に依拠しているので森岡自身がどのように「誕生肯定」を論じているのか確認する必要がある

*13:なお、かつては「自己の生から産みだされた他者の生を肯定することを経由してこそ、そしてそれによってのみ自己の誕生肯定が可能ではないか」という他者を経由した事故の誕生肯定が可能であるというのが居永の主張であったようだ(居永2016, 8)。

*14:居永はその一つの実例として文化人類学における夫婦共同型出産の習俗に関する研究に触れている(居永2015c, 第3章)

*15:居永自身も、例えば森崎和江の記述について、「妊娠・出産を経験し た森崎自身にしてみても、それを言語化するには言葉が不足し、浅すぎる概念しか手にしていないというこの記述(居永2015c, 24)」と指摘している。また、妊娠出産の過程が女性の意志とはほぼ関係なく進行するという意味において、「女性の身体が「産み」に関わるということも、必ずしも自明なことではない(居永2015b, 120)」とも述べている。ただし、居永は決して妊娠・出産における女性の身体経験を軽んじたり、低く見積もっているわけではない点は付記しておく。

*16:もちろん、僕は妻が娘を産んでいないとは思っていない。

*17:居永もフェミニスト現象学を検討しながら、多種多様な妊娠・出産や親子関係についての現象学的記述が求められることに言及している(居永2015b, 114)

*18:このように考えてしまうこと自体が、ジェンダーバイアスに縛られていると指摘されれば、そうのとおりだと思う。