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読書メモ2 森岡正博他「生命の哲学の構築に向けて(1)」他、論文5本(1/3)

 どうも、僕です。今回は前回に引き続いて、哲学的な議論の論文をいくつか読んだのでまとめていきます。今回読んだのは以下の論文です。

森岡正博、居永正宏、吉本陵「生命の哲学の構築に向けて(1):基本概念、ベルクソン、ヨーナス」『人間科学 : 大阪府立大学紀要』2007, 3, p3-68
 (このうち、森岡「第一章 生命の哲学とは何か」のみ)
森岡正博、吉本陵「将来世代を産出する義務はあるか?:生命の哲学の構築に向けて(2)」『人間科学 : 大阪府立大学紀要』2008, 4, p57-106
森岡正博「誕生肯定と何か:生命の哲学の構築に向けて(3)」『人間科学 : 大阪府立大学紀要』20011 8, p173-212
森岡正博「「生まれてこなければよかった」の意味:生命の哲学の構築に向けて(5)」『人間科学 : 大阪府立大学紀要』20013 8, p87-105
森岡正博「「産み」の概念についての哲学的考察:生命の哲学の構築に向けて(6)」『現代生命哲学研究』20014 3, p109-130

 今回は、前回の流れもあり、森岡正博さんの「生命の哲学」という壮大な構想の一部を読んでみました。続きもまだまだあるので今後また読み進めていきます。
 「生命の哲学」はその射程がとてつもなく広いため(詳しくは①の論文を参照)、ひとまず今回も論文を一つずつレビューするというより、興味関心に従ってメモを取っていきます。テーマごと以下の3つに分けられるように思いましたので、ブログ記事自体を分けてまとめます。

1/3 将来世代の産出義務について
2/3 「誕生肯定」論について
3/3 「産み」の概念の検討

 今回は将来世代の産出義務についてまとめます。論文としては②です。


 「将来世代を産出する義務はあるか?」という論文タイトルから分かるように、ここで問題となるのは私たちが将来世代を産出する(直接的には、生殖によって子どもを産む)義務があるのかどうか、という問題だ。森岡と吉本はハンス・ヨーナスの責任論を足がかりに将来世代の産出義務を検討している(森岡、吉本2009)。具体的には吉本がヨーナスの将来世代論とその批判的検討を論じ、森岡がそれを受けて自ら思考実験を展開しながら将来世代の産出義務について考察を進めている。今回は、その展開にあわせて以下の3つの順でまとめていく。

1.ヨーナスによる将来世代産出義務の根拠づけ
2.ヨーナス批判による遂行論的根拠づけ
3.森岡の思考実験と将来世代産出義務の検討

1.ヨーナスによる将来世代産出義務の根拠づけ

 吉本は「将来世代を産出する義務はあるか?」という問いを「生殖への義務は存在するか、存在するとしたらそれはどのような仕方で根拠づけられるか」という問いとして捉え、ヨーナスの理論においては生殖への義務は「将来の人類が<現に存在すること>」に対する義務に包摂されると述べている(Ibid., 60-61)。
 将来の人類が現に存在するためには、現役の人類である私たちが生殖によって次世代を残さないといけないので、当然生殖は義務となる。では、どうして私たちは将来の人類が現に存在することに対して義務を負っていると言えるのか。基本的に、ヨーナスの将来世代論の検討とは、この根拠づけが成功しているかどうかの検討である。
 ヨーナスによる将来世代産出義務の根拠づけは、基本的に形而上学的なもの、つまりこの世界(形而)に内在的なものではなく、それを超えるようなものに基づいている。1つは「人間という理念」に基づく存在論的根拠づけ、そしてもう1つは人間や人類を自然の究極的な目的として捉える自然哲学的な根拠づけである。

存在論的根拠づけ

 ヨーナスの責任倫理学においては、「人間は存在しなければならない」ということが第一命題とされる。それは、「人間という理念Idee des Menschen」が、人間あるいは人類が具体的な姿を取って世界の中に現前することAnwesenheitを要求するからである(Ibid., 62-63)。また、人間は唯一責任をもつという能力をもっており、世界はこの責任というものが存在することによってより善いものとなっている。よって、責任をこの世界に存続し続けさせるために、人間は存在しなければならない(Ibid., 64)
 このうち、責任の概念に関わる後者の説明はヨーナスの晩年の著作によるもののようだ。吉本の「ここでは世界における人間の現前の善さは、世界における責任の現前の善さとしてとらえ返され、人間の存在に対する存在論的な責任は、責任それ自体に対する存在論的な責任として語りなおされている。(Ibid.)」という吉本の説明が分かりやすい、と思う。
 ヨーナスのこの説明が成功しているか否かは別にして、個人的には嫌いではない。人間存在の謎めいたものに迫っているように思うからだ。
 それこそ「責任」という概念がなぜ機能するのかと考えれば、「責任」という概念が現に機能しているからに他ならない。「責任なんて知りませ~ん」とほとんど多くの人々が開けっぴろげに言い放ち行動してしまえば、おそらく責任をもって何かを為すということは可能にならない。
 けれども、それは「責任」という概念に何かしらの根拠があることを示すわけではない。実際、「責任」という概念が無根拠であることを多くの人は知っているか、うすうす感じとっているのではないか。政治家が「責任を持った政治を~」などというとき、その根拠がどこかにあると信じている人はほとんどいないのではないか。かと言って、その政治家が嘘をついたり何か不正をしたりすれば、「責任」に根拠がないことを知っている人でも「責任をとれ」と文句の一つでも言いたくなるだろう。人間とは、こうした謎めいたものに基づいて生きている。
 思うに、ヨーナスの考えの根本に、「将来世代など存在しなくともかまわない」と考えることが、私たちが生きる上で大事な前提や基盤のようなものを破壊してしまう、まともに生きていくこと自体が困難になる、という危機感があるのではないか*1

・自然哲学的な根拠づけ

 この根拠づけは、ヨーナスの人間、あるいは生命についての哲学的思索に深くかかわっていると思われる。それを理解するにはまた別の機会を設けなければならないが、ひとまず本論文から読み取れる結論を簡潔に表現すると、「生命の存在そのものが自然の目的(の一つ)」であり、「生命の発展の結果として姿を現した人間(人類)もまた自然の目的の一つ」であるということになると思われる(Ibid., 68)。つまり、「自然がその目的の一つとして人類の地上における現前を告げている(Ibid.)」ということが、将来世代の人類が存在を要求すると考えられていると思う。
 こちらの説明は逆にあまり好きではない。先ほどの存在論的な根拠づけの弱さを補うために大きなもの(自然や生命といった概念)に接続してしまったのではないかという印象を受ける。あるいは、存在論的根拠づけの背景に見え隠れする人間の謎めいた性質を、自然や生命といった大きな概念の中に埋め込むことで覆い隠しているように思う*2

2.ヨーナス批判による遂行論的根拠づけ

 吉本はヨーナスの根拠づけに対する批判、あるいは修正論として、討議倫理学の立場から論じるカール=オットー・アーペルと、ヨーナスとアーペルを比較しながら考察を進めている品川哲彦による根拠づけを挙げている。これらは、ともに「遂行論的根拠づけ」と呼びうるものでり、ヨーナスの形而上学的な考えを排して、私たち自身の発話などの現実的な営みに基づいて将来世代の産出義務を基礎づけようとするものだ。

・アーペルの討議倫理学による基礎づけ

 アーペルは討議倫理学の立場から、「理想的なコミュニケーション共同体」というものを想定する。私たちは(真面目な論証のために)発話する際には必ず理想的なコミュニケーション共同体を前提としている。この共同体は、これ自体を否定するためにも(否定しようとするコミュニケーションをとるためにも)必要となるので、結果的には否定することができない。アーペルは、こうした共同体においては現在の人々は等しい権利をもつものとして未来の人々を見出す必要があると考し、人間(人類)が「存在しなければならない」ということを根拠づけることができると考える(Ibid., 70-71)。
 ポイントはおそらく、現在の人々と未来の人々を平等で同じ権利を有する存在として捉えるところにあるだろう。しかし、現在の人々と来来の人々を等しく捉えることは果たして妥当だろうか。特に、ヨーナスは責任を「力をもつもの」が「力に委ねられ脅かされているもの」に対して課せられる義務(Ibid.,60)」として考えるのであって、私たちが未来の人類へ責任を負うのも、未来へ向けて一方的に力を行使することが可能だからと思われる。アーペルの修正は、こうしたヨーナスの考えの特徴を否定しかねない。
 

・品川による遂行論的基礎づけ

 吉本によって示される品川の基礎づけは、より明快だ。それは、「「人類は存続すべきか」と人類自身が問われたとき、「存続すべきでない」と現に存続しているところの人類が答えるのは端的に言行不一致であり、自己矛盾に陥って」いる、というものだ(Ibid., 73)。
 アーペルは一応「現在の人類」と「未来の人類」を区別し、前者が後者に対して義務を負う、という形式をとっているが、品川のものはこれらを「人類」という形でひとまとめにしてしまっているという印象を受ける。よって、アーペルと同様に、現在の人類と未来の人類を同じ「人類」という言葉でくくってしまっていいのか、という疑問が残る*3
 ただし、吉本が引用している文章の中で「人類の存続なしには倫理的問いを問う基盤そのものが成立しえないという意味で理解することができる(Ibid.)」という品川の記述は重要に思える。

 アーペル、品川どちらの考えも、ヨーナスの考えがもつ「力の義務Pglicht der Macht」(Ibind., 60)という側面をあまり重視できていないように思えてしまう。吉本も脚注ではあるものの、「現在と未来の非相互性をこそ問題として捉えようとするものだったのではないだろうか(Ibind., 74 注45)」と指摘している。また、同じ脚注で遂行論的矛盾に訴える形の証明では、「動機付け」という観点が抜け落ちてしまうのではないかといった指摘もしており、これも重要に思える*4。いずれにしても、個人的にはヨーナスの存在論的根拠づけの背景に見え隠れする、人間存在への深い洞察に基づいてこの問題を考えることができるのではないか、という気がする。
 また、ここまでの議論は「将来世代を産出する義務はあるか」あるいは「生殖の義務はあるか」という問題が、人類全体の問題としてのみ考えられている気がする。人類全体として将来世代を産出する義務があるとすれば、当然誰かが将来世代を産出するために生殖しなければならないわけだが、それが自分であるかどうかということはまた別の問題に思える。要するに、この問題で考えるべきはまさに「私に対してこのような義務が課せられるべきか」ということであって、人類全体の問題を考えるにしても、そこから考えていくような観点がないかということを強く感じる。

3.森岡の思考実験と将来世代産出義務の検討

 吉本によるヨーナスの将来世代論、あるいはその批判的アップデートの検討*5を受け、章を変える形で森岡による考察が進む。森岡は自身の思考実験によって将来世代産出義務を検討するが、そのポイントは次世代の産出を縮減し将来的にゼロにするようコントロールしていくという「人類の穏やかな自己消去」を念頭におくこと、そして「産む産まないは女が決める」という個人主義の主張を置いた上で将来世代産出義務を考察することだ。
 森岡は、「人類の穏やかな自己消去」を前提とするなら品川の指摘するような、現に存在している人類が自らを「存続すべきではない」と主張する、という遂行論的矛盾は生じないと指摘する(Ibid., 79-80)。森岡の指摘は、ヨーナスが念頭に置いていた現在の人類と未来の人類の差という観点を取り戻すものでもあり、まったく正しいように思う。また、アーペルの基礎づけも「われわれが発話をするときに、将来のコミュニケーション共同体の存在を前提としているからといって、その共同体が将来に実際に存在しなければならないということには必ずしもならない」と退ける(Ibid., 105)*6。いずれの根拠づけも、「人類の穏やかな自己消去」という将来世代産出義務を(将来的にではあるが)否定する考えを却下することができない。
 また、「産む産まないは女が決める」という主張それ自体は、フェミニズム運動から出てきたリプロダクティヴ・ライツの主張だが、森岡はこれを本来のコンテクストから引きはがし、将来世代産出義務と対立する(あるいは対立し得る)ものとして扱っている(Ibid., 80-81)。「産む産まないは女が決める」という主張を全面的に認めるのであれば、全ての女性が「産まない」という選択をとった場合は将来世代が産出されないことになるからだ。よって森岡はこの主張に基づき、「すべての女性が産まない決断をする」という極端な仮説を立て、可能と思われる2つの立場を立てることで思考実験を進める。これらの立場は徐々に修正されていくので、順に確認していく。

・将来世代産出義務についての2つの立場

(1)「もし仮にすべての女性が産まない決断をし、その結果として将来世代が産出されないというケースが生じたとしても、それは仕方ないものとして引き受ける」という考え方は。このとき、女性の産まない選択は無傷で守られる。女性個人は「将来世代を産出する義務」を負わない。
(2)「もし仮にすべての女性が産まない決断をし、その結果として将来世代が産出されないというケースが生じた場合、将来世代の消滅は回避すべきであるので、女性の産まないという選択にはある程度の規制が課せられなければならない」という考え方。このとき、女性の産まない選択は制限される。女性個人は「将来世代を産出する義務」の一部を負う。男性個人もまたその義務の一部を負う。
(Ibid., 82-83)

 (2)の立場については、森岡の注釈を確認しておく必要があると思う。この立場は、単に人類の絶滅を回避したいのであれば、個人の「産まない」という自由な選択に何かしらの制限をかけなければならないという考えであり、「人類と人間個人のどちらかが上位の価値を持つか、という判断は含まれていない」とされる(Ibid., 83)。
 森岡は、思考実験を通じて上記2つの立場を修正する。それは、現在生きている女性がいっせいに産まないという選択をすると、現在の社会システムが崩壊してしまうという点を考慮に入れることである。これは単純に「他者危害の原則」に基づいて否定されるため、「社会システムを根本的な崩壊に導かない程度の人数」を産出することが義務付けられると考えられている(Ibid., 84-85)。
 これによって、当然(1)の立場は修正されるが、(2)もまた修正される。(2)の立場は「産まない」という自由な選択を否定するわけではなく、「将来世代の消滅」を回避する、という目的のためだけに自由な選択を制限する。よって、人類が持続的に維持されていく程度の人数の産出が義務付けられる(Ibid., 89-90)。つまりは、どちらの立場も社会システムの保持や人類の持続的な維持といった目的のために、個人の選択がある程度制限されてしまうことになる。これは実際に子どもを産む女性に限った話ではなく、男性や子どもを産まない女性、その他性的マイノリティの人々にも何かしらの形でこれらの目的に貢献、あるいは協力することが求められる。
 よって、2つの立場は以下のように修正される。

(1)「もし仮にすべての女性が産まない決断をし、その結果として将来世代が産出されないというケースが生じたとしても、それは仕方ないものとして引き受ける」という考え方。このとき、個々の女性の産まない選択は可能な限り尊重されるが、いますぐにすべての女性が産まないということは許されない。女性は「社会システムを根本的な崩壊に導かない程度の人数」の子産みをする義務を負い、男性はそれを全力でサポートする義務を負う。そのうえで、出生数を減らしていき、その帰結として人類が「穏やかな自己消去」を迎えるべきである。人類の「穏やかな自己消去」に関しては、それを肯定する。
(Ibid., 89)

(2)「もし仮にすべての女性が産まない決断をし、その結果として将来世代が産出されないというケースが生じた場合、将来世代の消滅は回避すべきであるので、女性の産まないという選択にはある程度の規制が課せられなければならない」という考え方。このとき、個々の女性の産まない選択は可能な限り尊重されるが、いますぐにすべての女性が産まないということは許されない。女性は「人類を持続的に維持できる程度の人数」の子産みをする義務を負い、男性はそれを全力でサポートする義務を負う。人類は持続的に維持されるべきであり、一部を負う。人類の「穏やかな自己消去」は否定される。
(Ibid., 90)

 
 森岡はこうして2つの立場を修正したのち、「すべての女性が産まない決断をする」という極端な前提を緩め、産みたい女性がいたらどうなるか、という観点で再び(1)と(2)の立場を考察する(Ibid., 93-98)。当然(2)は産みたい女性を排除しないが、(1)の立場も産みたい女性を否定するわけではない。(1)は「穏やかな自己消去」を受け入れるが、それを前提とするわけではない。一方、(2)の立場は将来世代の消滅を回避するために「人類を持続的に維持できる程度の人数」を産み続けないといけない。
 こうした考察を通じて2つの立場の融和が可能か、森岡は「プラグマティックな次元」において妥協が成立する余地があることを認めるが「理論的な次元」においては対立が解消されないと指摘する(Ibid., 102)。すでに確認したように、(1)の立場は産みたい女性を否定するわけではなく、そうした女性がたまたま幸運にも「人類を持続的に維持できる程度の人数」を産むことが出来るに足る人数であれば、(2)の立場もその他の女性に子どもを産むことを求めずにすむ。いずれの立場も個人の自由な選択自体は基本的に尊重するのだから、男性など子どもを産まない人々は産みたい女性を何かしらの形でサポートすることになる*7。しかし、両者は「穏やかな自己消去」について正反対の考えをもつため、この点については調停は不可能だ(Ibid., 91)。

・将来世代産出義務の検討

 こうした思考実験を経て、森岡はヨーナスやアーペルによる将来世代産出義務の根拠づけによって、(森岡自身もその考えに近いという)(1)の立場を突き崩せるかを問う。結論から言えばそれは出来ないと考えられている。ヨーナスの存在論的根拠づけは公理の提案以上のものではなく、それを採用しない立場論駁することはできないし、自然哲学的根拠づけもヨーナスの自然哲学の枠組みを共有しない者には説得力をもたない(Ibid., 104)。アーペルについては既に述べた通り、「発話上」存在が想定されているものが「実際に存在」しなければならない理由はない。
 しかし、森岡は「(2)の立場に論理的矛盾があるとは考えないし、その立場を取ることが決定的に間違っているとも考えない」と述べる(Ibid., 103)。森岡とヨーナスを分かつのは、将来世代産出義務についての根本的な態度の違いである。あるいは、「人類の持続な維持を(個人の自由な選択をやむなく制限するということを受け入れてでも)求めるかどうか」という違いであると言っていいだろう。

 森岡の議論は、少なくとも今回読んだところに限って言うのであれば、将来世代産出義務に関してヨーナスやアーペルよりも説得的で、首肯することの多い内容だったように思う。ただ、途中でも触れたように、ヨーナスの基礎づけ(特に存在論的基礎づけ)に潜む人間存在への深い洞察は、より詳細に検討する余地があるようには思う。
 そのうえで、「個人の自由な選択*8」と「将来世代の存在」を対立させる形ではない思考実験、あるいは議論が可能ではないかという気もする。極端な言い方をすれば、「将来世代の存在」を前提とすることで初めて産む産まないという「自由な選択」が可能になるのではないか、というような考えだ。
 また、そもそも産む産まないということは、「自由な選択」といったものによって可能になるものなのか、という疑問もある。むしろ、子どもは私(たち)の意思に反して「産まれて」くるのではないか。これもまた極端でいささか非現実的な表現だが、実際に娘が産まれてきて実感していることでもある*9


 以上、今回は将来世代産出義務についてのメモをまとめた。次回は、前回も触れた「誕生肯定」論についてメモをまとめていくが、この議論も将来世代産出義務についての議論と緩やかに繋がっているように思う。

*1:当然、これは「社会など崩壊しても構わない」「まともに生きていく必要などない」と考える人たちにとっては意味のない話だ。

*2:僕自身の考え方はどこまでも人間中心的ではあるな、と我ながら思う。

*3:おそらく品川の議論において重要なのは、ヨーナスを修正した遂行論的根拠づけよりも、ヨーナス(責任)とアーペル(正義)を対比させながら「正義に照らして責任を考察し、責任に照らして正義を考察することによって、どちらか片方だけからでは見えないものに光を当てることを試みる(Ibid., 74)」という点にあると思われる。

*4:ただし、吉本の記述では客観的側面=理性に関わる、主観的側面=感情に関わる、といった捉え方をされている気がするが、この点は疑問が残る。主観的な「動機付け」の問題とは、まさに行為者としての私がある行為(あるいは行為の総体)に対してどのように意欲づけられるか、という問題であって、それは決して非理性的なものでも感情によって支配されるものでもないと思う

*5:吉本自身の議論は、ヨーナスとアーペルの対立の意味を考察する方向に向かい、将来世代の産出義務について見解が示されてはいないようだ。

*6:森岡によると、この証明は「神はその本質として存在を含んでいるから、現に存在しなくてはならない」という神の存在証明と同型の難点を含んでいる(Ibid., 105)。

*7:森岡は、「(2)の立場を(1)の立場の人々にも受け入れられるように言い直すとするならば、「人類が持続的に維持されてほしいという願いが、われわれには存在する」ということになるのではないだろうか」と述べている(Ibid., 102)。この願いが個人の自由な選択を侵害することなく、「幸運にも実現される」ことが両者の「プラグマティックな次元」における妥協の成立となると思われる。

*8:この一連の思考実験で「女性が産む」という前提を立てる必要があったのだろうか、ということは少し疑問だ。もちろん、実際に子どもを出産するのは女性であるし、「産む産まないは女が決める」という主張の可能性を広げる意図もあるだろうとは思うのだが、単純に考えて今回の思考実験で「すべての女性」を「すべての(個)人」としても基本的な論旨は変わらない。実施には産む産まないの決断が女性個人によるものと考えるのは難しいし(ただし、森岡がそのように考えているというわけではない)、むしろこの決断に出産する女性個人以外(特にパートナーである男性)も加わっている、あるいは加わるべきである、という前提で考察することで、将来世代産出義務の基礎づけが可能になる道が見えてくるかもしれない気がする。

*9:「そりゃお前が出産してないからだろ」と言われると実際出産はしてないので反論が難しいが、そういう意味で言っているわけではない。でも自分がそう思っていないだけで単にそういうことである可能性もある。ただ、現実的には(不妊治療などで)どれだけお金と時間を費やしても実現が難しい一方で、(性交渉が必ずあるにせよ)望むことも意図することもなく実現することもある、という事実はもっと念頭に置かれるべきだろうと思う。