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吉本陵(2014)「人類の絶滅は道徳に適うか? デイヴィッド・ベネターの「誕生害悪論」とハンス・ヨーナスの倫理思想」

 論文の場合は、読んだものごとにまとめ記事作ったほうがやっぱりいいかなーということで今回から形式をちょっと変えました。
 試行錯誤でね、やっていきたいですね。文献リスト記事も作成しないと。いつか。

 さて、今回は以前の記事で触れた将来世代産出義務の議論から続くような、以下の論文です。


吉本陵(2014)「人類の絶滅は道徳に適うか? ― デイヴィッド・ベネターの「誕生害悪論」とハンス・ヨーナスの倫理思想」『現代生命哲学研究』第3号、pp.50-68


 簡単にまとめていきます。今回から引用文はページ数のみ記載します。



 吉本は、人類は絶滅するほうが良いというデイヴィッド・ベネターの「誕生害悪論」を「ヨーナスが人類の存続が義務であることの根拠として提示した「人類の存在の自体的なよさ」の意味をあらためて問い直すことを要求するもの(51)」として設定する。簡単に言えば、ベネターの理論をヨーナスの倫理思想に対抗するチャレンジャーとして設定し、その挑戦にはヨーナスの思想からどのように応えることが出来るか論じている。
 章立てに合わせ、以下のようにまとめていく。

1.ベネターの誕生害悪論
2.誕生害悪論に潜むもの
3.ヨーナスの倫理思想からの応答

1.ベネターの誕生害悪論

 まずここではベネターの誕生害悪論について、「まだ存在していない者をこれから存在させることは道徳に適うのか(51)」という観点から、「ベネターの「誕生害悪論」が、地上における人間の生とその継続に関して何を言おうとするものなのかを明確にすること(52)」が目的とされている。ベネター自身によるというまとめは、以下のとおり(52)。

(1)苦痛pain の現前presence は悪いbad。
(2)快楽pleasure の現前はよいgood。
(3)たとえそのよさを享受する者がいないとしても、苦痛の欠如absence はよい。
(4)快楽の欠如がその人にとって剥奪deprivation であるような者が存在しないならば、快楽の欠如は悪くないnot bad。

 ベネターの理論の特徴は、苦痛と快楽を同じように考えないことである。存在しない(生まれてきていない)潜在的な主体の利害からすると、「苦痛の欠如はよいことである(53)」が、同様のことは「快楽に関しては成り立たない(54)」。苦痛を避けるという点では、生まれてきていないほうが「よい」のは当然だが、快楽を得るという点において「悪くない」よりは「よい」方が、つまり生まれてきた方が望ましいという考えは誤謬であるという。
 それはなぜか。ベネターの考えでは、快楽を得ることがより望ましいと言えるのは「快楽の剥奪という意味での快楽の欠如との比較において(55)」であって、生まれてきていない主体はそもそも快楽が剥奪されているわけではないのだから、望ましいとはならない。快楽の場合、生まれてきた方がよいわけでもなければ、生まれてこなかった方がよいわけでもない。しかし、苦痛に関しては生まれてこなかった方がよい。吉本は、「ベネターの主張の当否はこの非対称性が成り立つかどうかに懸っている(54)」と指摘する。

2.誕生害悪論に潜むもの

 当然、これに対しては苦痛にもまた快楽と同様のことが言えるのではないかという疑問がわく。つまり、「(1)における「苦痛の現前」が「悪い」とされるのは「苦痛の剥奪」よりも悪いということであって、「苦痛の欠如」よりも悪いということは含意してないのではないか(56)」ということである。しかし、おそらくベネターは承服しないだろう。吉本は、こうした苦痛と快楽の非対称性に「ベネターの現実認識における予断が現われている(57)」と考えている。

 では、その予断とは何か。ベネターは(3)と(4)の非対称性を説明する文章において、「苦痛と快楽の対称性は論理的には成り立ちうるが、それは現実を反映していない(58)」と述べているという。つまり、論理的に苦痛と快楽が非対称なのではなく、現に非対称なのだと主張しているわけだ。「この世に生きることはもっぱら害悪を被ることだ、というのがベネターの現実に関する認識(58)」であり、苦痛と快楽の非対称性は現実的なものだとするベネターの考えは、こうした(人生は苦しいことばかりだというような)現実認識が反映していると吉本は考えている。
 こうした考察から、ベネターの「誕生害悪論」は以下のようにまとめられる。

ベネターの「誕生害悪論」の根底には、この世の生の主体は「快楽の主体」であるよりもっぱら「苦痛の主体」である(つまりこの世に存在することは「利得benefit」ではなく「害悪harm」である)という洞察が、換言すれば「生存害悪論」がある。それにしたがえば、苦痛と快楽は論理的には対称的でありうるにせよ、現実には非対称的なものだと見なされる。この非対称性のゆえに、主体の不在における「苦痛の欠如」は「よい」のであり、快楽の「欠如」は(「悪い」ではなく)「悪くない」となる。(59)

 よって、ベネターの「誕生害悪論」は、「地上の生は「苦痛」という意味での「悪」に満ち満ちているという現実の認識をベネターとともに承認することによってはじめて妥当性を獲得する」と考えられる。

3.ヨーナスの倫理思想からの応答

 こうした「誕生害悪論」に、ヨーナスの倫理思想からはどのように応答できるだろうか。実は、ヨーナスは人生を苦しいものと捉えるベネターの前提を共有している(し得る)という。ヨーナスはユダヤ人でナチスドイツからの迫害というバックボーンをもっており、彼の思想は「極限的な状況を想定した上で、なお「人類は存在しなければならない」と主張するもの(60‐61)」である。ヨーナスは快楽や苦痛の計算・比較をするのではなく、「快楽計算(快苦に関する主観的な価値評価)の総計はマイナスになるとしても、人類の存在における「客観的な価値」のゆえに、人類は存在しなければならない(61)」と考える。
 では、ヨーナスはどうして人類、あるいは人間の存在を「客観的な価値」と考えるのか。これは以前、将来世代産出義務の議論の中で確認したように、人間の本質的な特徴である責任が世界に現前することが善であり、これを公理として選択するからだ(存在論的根拠づけ)。ベネターはそれを選択しないだろうが、吉本の意図はその選択が妥当であるか否かではなく、「そのような選択をすることによって、実のところ何を選択したことになるのか(62)」を問題とすることだという。
 責任の現前は、責任の不在より「絶対的によい(absolut gut)」あるいは「自体的によい(an sich gut)」とされている。この表現が意味するところを吉本に従って要約すれば、相対的な価値の現前は不在「よりも(相対的に)よい」のだが、価値をもちうること(Fähigkeit zu Wert)は絶対的な価値であり、その可能性がないことよりも絶対的に優越している、といったことである(62)。人類の存在は、このような意味で「自体的な善」なのだが、吉本はこれを「「存在の重み」を意味するもの(63)」として解釈する。よって、ヨーナスの選択は「存在それ自体に重みを認めるという選択(64)」とされる。
 こうした「存在の重み」は、ベネターの議論にも見出せるという。なぜなら、ベネターの「誕生害悪論」は「人間の生は「はじめるに値する生」ではないが、「継続するに値する生」ではあると見なす(65)」からだ。人間の生は害悪に満ちているから生まれてこなかった方がよかったとは考えるのだが、死によって現に生きているこの生を継続させない方がよい、とは考えないのだ。つまり、ベネターは「その存在が存在し続けようとする関心を害悪からの究極的な解放である死ないし無よりも重視している(66)」のであり、それは「「存在の重み」を実は承認している」からではないかと吉本は考えている。


以下、2点ほどコメントを残す。

・「快楽」と「苦痛」の非対称性について

 もしベネターの言わんとすることが、単に「現実的に人生は苦痛のほうが多い。だから、快楽と苦痛は非対称的だ。」などのように考えているなら、単純にお話にならないように思う。そうではなく、(たとえ「現実的に」であっても)「快楽」と「苦痛」を比較した際に、そこには非対称性があるという話なのではないか。
 当然、正確に理解するためにはベネター自身の著書を読む必要があるが、「快楽」と「苦痛」の非対称性はそれほど納得できない話ではない。苦痛はそれだけで悪(-)だが、快楽はそれだけで善(+)ではなく、その快楽がない状態=0状態との比較において善(+)なのだ、と考えることは出来るように思う。
 美味しい食べ物を食べることが快楽なのは、美味しい食べ物を食べてない状態と比較することでしか分からない。常に美味しい食べ物を食べている人間がいれば、その人にとってそれは快楽ではないかもしれない(例えば私たちにとっての呼吸のようなものかもしれない)。けれども、空腹はそれだけで苦痛であるし、それは満腹の状態と比較して苦痛であるわけではない。
 以上のように快楽と苦痛を捉えるのであれば、生まれてこなかった場合は基準となる0状態がそもそも存在しないのだから、快楽が存在しないことがよいとも悪いとも言えないことになる。ベネターの考えとは異なるかもしれないが、このような考え方自体はそこそこ説得力があるように思える。この点は、今後ベネター自身の論述、また功利主義の議論の中にありそうな気がしないでもないので勉強が必要。

・「存在の重み」について

 ベネターに対するヨーナスの立場からのカウンターを、「存在の重み」という言葉に委ねてしまうのは少し物足りない。それ自体はいいのだけど、では「存在の重み」というものは何なのか、ということを考えたい。
 個人的には、やはりこの概念は超越論的な原理なのではないかと思う。私が存在するということは私のあらゆる経験の可能性の条件であり、私の快楽も苦痛も私が存在するということでしか成立しない。私はまずもって存在しなければならない。存在しなければ、その人生が善か悪かも判断することはできない。私がこの世に生を受けた結果、私は生まれてくるべきではなかったという結論が導かれるかもしれない。それでも、その結論は私が生まれてこなければ、私の存在というものがなければ導かれることはなかった。そのような意味で、「私は私自身を否定するために生まれてきた」という結論に至る可能性とともに生まれてきたのではないか。
 ヨーナスの思想から、こうした考えが見えてくるかもしれない。また、ベネターのような立場に言わせればこれは悪なのかもしれない。これも引き続き勉強する中で検討していけたらと思う。