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森岡正博(2020) 「リヴカ・ワインバーグの出産許容性原理について ― 生命の哲学の構築に向けて(11)」

今回の論文は以下の通りです。

森岡正博(2020) 「リヴカ・ワインバーグの出産許容性原理について ― 生命の哲学の構築に向けて(11)」『現代生命哲学研究』第9号、pp.80-88

 前回に続き、森岡正博さんの「誕生肯定」論にかかわるものですが、こちらの論文は直接的には「生まれてこなければよかった」という反出生主義の文脈に近そうです。「生まれてこなければよかった」という主張は、その延長として「これからも産むべきではない」という主張に繋がり得るものですが、両者は別ものです。本論文は、後者の「出産否定」の考えに対する、「出産許容性原理」を紹介、検討するものです。



 本論文は、リヴカ・ワインバーグ『人生のリスク』における「出産許容性原理」を批判的に検討している。
 以前の記事でも触れたように、森岡は「生まれてこなければよかった」という反出生主義への応答を試みていた。ワインバーグの『人生のリスク』は、「反出生主義における出産否定を念頭に置きながら、いかにして人は出産を肯定できるのかについて哲学的に考察したもの(81)」だとされ、森岡ワインバーグの主張を批判的に検討することで、「出産否定」に対して暫定的な見解を示している。
 以下のようにまとめていく。

1.ワインバーグの出産許容性原理
2.森岡による批判的検討

1.ワインバーグの出産許容性原理

 子どもの出産を否定する際に頻繁に言及されるのは、「生まれる子ども本人から出産の同意を得ていない(81)」という点であるという。森岡も指摘しているように、出産に限らず、子育てのあらゆる場面で私たちは子ども本人の同意を得ていない。当然、子ども自身が「そんなことはされたくなかったのに」と考えている(あるいは振り返って考える)可能性はあるだろう。「出産禁止」の考え方の多くはこの事実を強い根拠としており、「「子どもは自分が生まれてきたことを後悔するリスクがある」と主張して子産みを思いとどまらせたり、禁止したりしようとするのは正当なことなのだろうか。(82)」という問題が示される。
 これに対して、ワインバーグの「出産許容性原理the principles of procreative permissibility」は、子どもの同意がなくとも出産が許される原理を提示している。これは、ロールズの正義論のように「これから子産みをする大人であるか、それとも生まれてくる子どもであるか分からないように無知のヴェールをかぶせられたとしたら、どのような原理を合理的に採用するかを考えてみよう(82)」というものだという。
 これによって示されるのが以下の2つの原理である。

(1)「モチベーション制限」Motivation Restriction
子どもが生まれたらその子どもを育て、愛し、伸ばしていきたい、という願望と意志によって、出産は動機づけられていなければならない。

(2)「出産バランス」Procreative Balance
何かのリスクがある環境下で出産を許容してほしいのならば、あなたが親として子どもに課するそのリスクが、もしあなたが生まれてくる子ども自身だと仮定したときに自分の出生の条件として受け入れたとしても非合理的ではない程度のものであるときにのみ、その出産は許容される。(ただし子どもとしてのあなたは生き続けるだろう、と前提する)。(83)*1

 これらの原理によって、生まれてくる子どもを育てていくという意思を持つ(モチベーション制限)、子どもの立場から出生のリスクをきちんと勘案し管理する(出産バランス)、という2つの義務が産む側に求められることになる。そして、この義務を果たすことによって、出産が許容されると考えられている。

2.森岡による批判的検討

 こうした「出産許容性原理」に対して、森岡はどのように考えるか。
 森岡によると、ワインバーグの主張は簡単に言ってしまえば「二つの原理を満たしていれば、同意なき出産の暴力性の悪は免責される(85)」というものだ。まず、これに対して森岡は少なくとも二つの原理だけでは不十分で、第三の原理が必要であるとする。

(3)「応答責任原理」Principle of Responsibility
親になろうとする者は、生まれた子どもが誕生否定の考えを抱いて親に「なぜ自分を産んだのか」と問うたときにその問いに真摯に応答していく、という決意を持たなくてはならない(85)

 私たちが出産について生まれてくる子どもの同意を得ることが不可能な以上は、そのことに子ども自身が容易に納得しない可能性が常に付きまとう。すべての出産がある意味では暴力的なのであり、しかもこれは「いまだ存在していない人間を本人の同意なくこの世に存在させる行為(85)であって、原理的に抗うことができないという意味で他の暴力とは全く異質なものだ。よって、産む側は子どもが「生まれてこないほうがよかった」と考える場合に応答する責任が存在すると考えられている。
 森岡は、「出産バランス」の原理について「生まれる子どもに成り代わって私が出産の適否を判断したとしても、その判断結果が、実際に生まれてくる子どもが将来になすであろう判断と一致することは、まったく保証されていない(83‐84)」と指摘している。この問題も、出産にまつわる根本的な暴力性、産む側と生まれる側の非対称性に起因している。
 では、このような形で拡張された「出産許容性原理」によって、同意なき出産が許容され、その暴力性の悪は免責されるのだろうか。森岡は「根本的には免責されないのではないか(86)」と述べる。ここでは、ワインバーグの原理が同意なき出産という問題に十分に応え得るものではないと考えられている一方で、同意なき出産*2が悪である根拠を示すことも難しいと考えられている。
 よって、「反出産主義の是非について確定的な答えは用意されていないというのが、本論文の暫定的な結論」とされている。


 以上のまとめからも分かるように、あまり深く立ち入った議論はなされていない。ただ、ワインバーグの議論はたたき台として有用であるようい思う。以下、簡単に気になった点を二つ。

・義務を課せられるのは「親」か

 ワインバーグ森岡も、出産の暴力性、それが許容されるか否か、という問題の主体を「親」として想定しているように思う。「出産許容性」を考えるにおいて「親にきちんと義務を課せばOK」(もしくはそれでもOKではない)といった発想になっているのではないか。素朴に考えれば、これら2つ、あるいは3つの原理は親の義務ということになる。
 しかし、こうした類の義務が出産には求められるとして、これらの義務は生まれてくる子どもに対して果たす「誰か」あるいは「何か」があればいい、と考えることも出来るように思える。そのように考えることが出来るのであれば、「出産」や「育児」を(血の繋がった)親子という狭い関係から解放し(あるいは親を「出産」や「育児」から解放し)*3、もっと広く人々が関わる営みとして捉えることになる気がする。

・子どもを能動的に「産む」ことは出来るのか

 反出生主義をめぐる議論を読んでいて思うのは、子どもを「産む」ということが能動的に選択可能であり、それは産むにせよ産まないにせよ責任をもった一つの選択であるという前提を、反出生主義者もそれに反対する者も共有しているように思う。
 しかし、子どもを能動的に「産む」ということ、それを「選択する」ということがいかに困難なことであるか。実際に子どもが産まれた経験からするとこの前提は一度しっかり問い直す必要があるように思う。おそらく、その過程で「責任」という概念を哲学的、倫理学的に問う必要が出てくると思われる。
 少なくとも、実際に子どもをもっている経験からの実感としては、子どもは能動的に「産む」のではなく、私たち親の意思を超えて「生まれてくる」存在である。

*1:森岡の脚注によると、「育て、愛し、伸ばしていき」は❝raise, love, and nature❞とのこと。また、出産バランスについては意訳であり、原文を参照とのこと(82、注7,8)。本記事では孫引きをしているが、原著は以下。Weinberg, Rivka. (2016). The Risk of a Lifetime: How, When, and Why Procreation May Be Permissible. Oxford University Press.

*2:同意ありの出産はあり得ないので、要するにすべての出産のことだが。

*3:これは「親は子どもを育てなくてよい」とか「親子関係などどうでもいい」ということでもないし、まして「親は子どもを産まない」ということでもない。子どもを産むのは誰でもよいし、誰が育ててもよい。多くのケースでそれは血のつながった親ではあろうが、代理母などの場合もあれば、養子などの場合もある。もしかしたら、これから子を産もうとしているある人たちは、ワインバーグ森岡の示すような義務を果たす意思がないかもしれない。しかし、他に義務を果たし得る能力と意思をもった人(たち)がいる場合、出産許容性原理を満たしたと考えてもいいのではないか、ということだ。