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中川優一(2020) 「産むことと生まれてきたこと ― 反出生主義における「出生」概念の考察」

 今回の論文は以下の通りです。

 中川優一(2020) 「産むことと生まれてきたこと ― 反出生主義における「出生」概念の考察」『現代生命哲学研究』第9号 、pp.54-79

 著者は変わりましたが、今回も『現代生命哲学研究』から反出生主義まわりの論文を。ベネターを代表として近年注目が集まる反出生主義ですが、「出生」という概念が反出生主義としてまとめられる主張を十分に表現できるものか、検討しているものです。



 反出生主義は「自らが生まれたことを否定的に捉えるというよりは、むしろ「新たに子どもを産むべきではない」という主張を分析哲学的に論証し、支持する立場」であり、本論文は「「出生」は「新たに子どもを産むべきではない」という重要な主張を十分に表現できていないのではないだろうか」という問題意識から、「出生」概念を検討している(54)。
 本論文の章立てに合わせる形で、以下のようにまとめる。

1.「うむこと」の考察
2.「うまれてきたこと」を否定するバリエーション
3.反出生主義の検討

1.「うむこと」の考察

 まずは、出生概念における「うむこと」に着目した考察が展開される。ここでは「新たな生命をもたらすことをプロセスとして捉え、この意味合いを持つ概念」として「生殖」を用い、「実存的に新たな私をもたらすプロセスの「新たに生じさせる」という点を捉えたもの」として「生成」が用いられる(56)。これら、生殖および生成の必要条件がここでは考察される。

・生殖の必要条件

 生殖については有性生殖と無性生殖に分けて論じられているが、有性生殖について、その必要条件は以下の通り3つ考えられている。

1. 新しい個体になる可能性を持つ接合体をつくること
2. つくった接合体をいずれかの生育環境下で発育させること
3. 生育可能性を持つ新しい個体を何らかの手段を用いて外化すること(59)

 このうち、1と2は無性生殖の場合は必要条件ではなく、3の「生育可能性を持つ新しい個体を何らかの手段を用いて外化すること」のみが生殖の必要条件と考えられている。

・生成の必要条件

 生成については、「生じさせること」「変化させること」を生成概念の要素として挙げ、それぞれ「生成①」「生成②」と区別され(61)、それぞれの必要条件が考察されている。

生成①の必要条件

1. 何者かが主体的に新しい物事をその性質に制限されることなく何らかの方法で生み出すこと (62)

生成②の必要条件

1. ある存在者がある物事の状態・性質を何らかの方法でそれまでとは違う状態・性質にすること (63)

 以上のように、生殖、生成①、生成②の3つに関して、その必要条件が提示される。

2.「うまれてきたこと」を否定するバリエーション*1

 反出生主義の「生まれてこなければよかった」という主張(あるいは願望)は、こうした必要条件を満たす「うまれてきたこと」の否定として捉えることができる。ここでは、これらを否定する願望のバリエーションが考察される。

・「有性生殖*2」の否定
 有性生殖の必要条件は3つあるため、中川はこれらを全て否定した場合と、3のみを否定した場合に分けて考察する。全てを否定する場合は、単に「外化」という形でこの世に生を受けないだけではなく、その条件となる接合体*3なども含めて否定するため、「自らが存在する可能性を根本から一切否定している」「一切認識されることも、気にかけられることもなかった状態を望むということ」と考えられている(65)。
 一方で、3のみを否定する場合は、存在する可能性そのものを廃除はしていないため、「当人と世界の繋がりは否定されていない(65)」とされている。

・「生成①」の否定
 生成①の否定に関しても、「「この私」の生成自体を否定する場合」と「「この私」のあり方を否定する場合」という2つが想定されている(66)。
 前者は私の具体的なあり方と無関係に「「この私」が存在しない状態を望む(66)」ことであり、後者は私の具体的な要素を否定するため「「別のあり方で生まれてきたかった」という願望である」と考えられている。

・「生成②」の否定
 生成②の否定に関して、「「この私」自身による変化を否定する場合」と「私以外の存在者による変化を否定する場合」という2つが想定されている(68)。
 前者は自身による変化を否定する。そのため、これは「後悔と強く結びついた否定意識」であり、基本的には「〜しておけば/しなければ良かった」とう願望だと考えられている。一方で後者は変化をもたらしたのは自身以外のものであるため、「〜が起こらなければ良かった」という願望とされる*4

 以上のように、「生まれてこない方がよかった」という主張の内実は様々であると考えられている。いずれにしても、これらの願望を拡大させ、「「私たちは生まれてこない方が良かった」という一般的な判断へと移行し、これを根拠として「新たに子どもを産むべきではない」という主張を引き出すのは控えた方がよい」とされる。一方で、「「生まれてこない方が良い」から産むべきではないのではなく、「生まれてこない方が良かった」という願望に至るリスクがあるから産むべきではないと考える」のであれば、「新たに子どもを産むべきではない」という主張が引き出し得る」という(70)*5

3.反生殖主義の検討

 ここでは「個人の実存的な理由以外から「新たに子どもを産むべきではない」と主張する立場(70)」が「反生殖主義」と呼ばれ、これが支持される理由と前提が、3つに区別されて考察されている。

・子ども

 子どもを中心とした理由は、「子どもは産まれてくることによって何らかの深刻な害を被るリスクがある(71)」ということが基本的な発想とされる。こうした発想に基づき、以下の2つの原則から「新たに子どもを産むべきではない」という主張はひとまず導出が可能だと考えられている。

1. 予防原則
ある行為がある対象に深刻で回復不可能な損害を及ぼす可能性があるとき、因果関係が完全に立証されていなくても、安全を優先して事前に規制のための行動を起こすべきである。

2. 危害に関する同意原則:
同意が取れない存在者に対して危害を加えてよいのは(a)ある害を当人から取り除く場合か、(b)深刻な害が当人に降りかかることを防ぐ場合のみであり、それ以外の場合は同意なく危害を加えるべきではない。(72)*6
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 中川は、予防原則については「配慮すべきリスクの範囲を明確にする必要(72)」があり、危害に関する同意原則は「有性生殖はそもそも危害を加える行為なのかという問いに応答する必要(73)」があると指摘している。ここではあまり詳細な議論が展開されていないが、要するに子どもの危害を考える際に生殖にフォーカスすることが妥当なのか、ということだろう。素朴に考えれば、私たちが予防すべきは子どもに危害を加えるもっと直接的な要因(危険な遊具や理解のない大人)であって、これらの原則から生殖を否定するのは「交通事故を防ぐためには家から出なければいい」といった話に思える*7

・親

 親を中心とした理由は、「有性生殖という行為、あるいは子どもの養育に問題がある(73)」ということが基本的な発想であるという。この発想の前提として、以下の2つが挙げられる。

1. 不幸な人生を歩む存在者を産み落とすべきではない。
2. 負担は平等に分配するべきである。 (74)

 中川は1の理由については、ある人生(例えば先天的な障害を持って生まれた場合)が不幸だということは第三者が容易に判断できるものではないため反論の余地があるとするが*8、2については反論が難しいと考えている。なぜなら、「現状、性差によって役割が異なるために、単純平等を目指すのはほとんど不可能と言ってよい」ため、「産む性と産ませる性の負担分配の公平性は大変な難問」と考えられているからだ。

・人類

 これは、「人類が存在することでもたらされる害悪がある(75)」という発想であるという。ここでは環境問題と動物の権利という2つが具体例として挙げられており、以下のように前提が示される。

1. 環境問題を解決すべきである。
a. 人間が存在する限り環境問題は解決できない。
b. 人間を殺害するべきではない。

2. 動物の権利を侵害するべきではない。
a. 人間が存在する限り動物の権利は侵害される。
b. 人間を殺害するべきではない。(75)

 中川はこれらについて、それぞれaの前提に疑問が残ると指摘している。

 以上の考察を通じ、本論文では反出生主義と反生殖主義を区別することが提案され閉じられている。その理由として、以下の3点がまとめられている。

1. 「出生」は「うむこと」に関する問題意識を十分に反映していない。
2. 「私たちは生まれてこない方が良かった」から「新たに子どもを産むべきではない」という推論には他者の出生を否定するという困難が伴う。
3. 「新たに子どもを産むべきではない」という主張を支持するために、「生まれてこない方が良かった」という願望を持ち出す必要はない。 (77)


 最後の主張はいささか唐突な印象を受ける。おそらく、1については出生概念を「生殖」「生成①」「生成②」に分けた考察、3については子どもを産むべきではない理由は、「子ども」「親」「人類」といったものを中心とした理由から主張できる(個人の願望は必要としない)という考察と繋がっているのだろうが、このつながりは明示的に記述されていないように思う。また、2については「他者の出生を否定する」ということについて考察が展開された形跡がないように思える。
 全体として、どこに向かうのか把握しにくく、意図を見出すことが難しかった。ただ、「生まれてきたこと」を否定する願望の分析にはユニークに思えるところもあり、森岡の議論と比較して考えることも出来そうに思える。また、反生殖主義の検討に関しては、今後参照すべき先行研究が含まれている気がする。

*1:論文で該当する章としては「2 「出生」概念における「うまれてきたこと」 」であり、ここでの作業によって「私たちが素朴に捉えている「うまれてきたこと」の多様性が明らかになるだろう(64)」と述べられているのだが、どうも記述内容とのズレを感じる。ここで「うまれてきたこと」は単に先ほど確認した必要条件が満たされたこととして考えられているように思え、その意味では「出生」概念に「生殖」「生成①」「生成②」という区別を導入した時点で「うまれてきたこと」の多様性は確保されている。ここでの論述のメインは、そうした「生まれてきたこと」の否定として反出生主義の考えを捉え、「反出生主義」と一括りにされる主張が内包する多様な内実を示していると思う。この点は森岡のベネター批判と多分に重なるところもある気がするものの、割とユニークなところではないかと思う。ただ、論文全体の中でどのように位置づけられるかよく分からない。

*2:ここでは「2020 年現在、人間は有性生殖によって産まれるため、無性生殖の場合は検討しない。」とされている(64、脚注21)。ならどうして有性生殖と無性生殖に分けて考察したのだろう、と思わなくもない。

*3:中川は明示していないが、要するに自分を産んだ両親の出会い等がそれにあたるだろう。

*4:「~が起きていればよかった」という願望はなぜか含まれていない。

*5:前者は控えたほうがよいという主張も、後者であれば可能であるという主張も、これまでの議論から導き出されているようにはあまり思えない。これは単に「個人的な願望を一般化するのは慎むべきである」という話にすぎないように思える。

*6:予防原則」は科学的探究に関する用語、「危害に関する同意原則」は反出生主義の議論に基づくようである(72、注33及び注34)。

*7:もちろん、家からでないことで防げるものは交通事故だけではない。通り魔や引ったくりも防げるだろう。もっと言うと家にいても事故や事件、様々なリスクがあるだろうから、それらすべてを回避するためには生まれてこないことが一番の解決策である。反生殖主義とはおそらく、このような考え方なのではないか。

*8:そもそも1の理由は、子どもを理由とした場合の話ではないかとしか思えないが。