読書メモとか、なんか書きます。

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児玉聡(2010)『功利と直観 英米倫理思想史入門』勁草書房 1/10

 「産み」の哲学については、今後参照にすべき文献もかなり見えてきたこともあり、またネット上で読める文献に限界があるのもあって、小休止します。また図書館行って本を漁れるようになったら再開しようかと。

 ということで、今日から手元にある本を読んでいこうかと思っています。まずは以下の本を。

 

 児玉聡(2010)『功利と直観 英米倫理思想史入門』勁草書房

 

  とりあえず、1章ずつまとめていこうかと。目標は1週間で。ちょっとずつ読めていけばいいかと思っています。

 

 本書は、「功利主義」と「直観主義」の対立を中心に英米の倫理思想史を論じています。現代の功利主義は一般的に「義務論」と対比されることが多いが、これは20世紀に入ってから主流となるもので、それ以前は功利主義直観主義が対比されていたらしい。

 倫理学での直観主義とは、「行為の帰結について考えるという過程を経なくても、行為を見ればすぐにその正しさあるいは不正さがわかる(ⅲ)」という考えです。こうした考えは義務論に通じ、本書は功利主義直観主義の議論を見ることで現代に繋がる英米の倫理思想史を現代にいたるまで見とおそうとするものです。

 今回の記事は、「第一章 直観主義の成立」をまとめます。

 

 


 

第一章 直観主義の成立 

 本章では、功利主義直観主義の対立に先立って、直観主義がどのように成立したのか確認されている。直観主義ホッブス主義への批判として始まったようで、「理性的直観主義」と「道徳感覚説」の2つに大別されている。

1.対立の始まり

 功利主義直観主義の対立は19世紀後半には既に見れるという。まずはアイルランドの歴史家レッキーの説明を参照しながら、その対立が簡単に確認される。

 ここでその対立は、道徳的知識に対する考え方の違いとして示されている。直観主義は、ある程度まともに育った人間であれば道徳的義務は本性的に、つまり「生まれながらにしてわかること(4)」だと考える。一方、功利主義はこうした主張を否定し、道徳的知識は「幸福に役立つということを、観察によって学習した(5)」ことによって、つまり経験的に功利性が確かめられることによって知ることになると考える。両者の差異は、その判断が行為の帰結に基づくか否か、という点とともに、経験によってたつか否かという点にもあることがわかる。

 以上は十九世紀の標準的理解であるとされる。これら対立図式が始まったのは十八世紀末と思われるようだが、本章はもう少し遡り、英国の直観主義の始まりから追っている。

 

2.ホッブス主義の脅威

 直観主義ホッブス主義の批判として形成されるという。ホッブス主義の特徴は「利己的な人間理解と道徳の人為性(9)」の2点にまとめられている。

 「利己的な人間理解」とは、「人間には純粋な意味での利他心(善意、他人を思いやる心)などないという考え方(Ibid.)」であり、人間の利他的な行動はすべて利己的な理由によって説明できるとされる。「道徳の人為性」とは、道徳それ自体は強制力を持たないため、「国家による実定法や制度によって強制されなければならない(10)」という考えである。つまり、社会的な契約に基づいて義務を決定する主権者が求められるのだ。まとめると、人間は常に利己的に行動しており、道徳は何らかの社会的な強制力が働くことによってしか成立しない非自立的なものだ、というのがホッブス主義の考えと言える*1

 では、こうしたホッブス主義を直観主義はどのように批判するのか。

 まず利己的な人間理解について、ひとまず利己的な理由に還元し得ない利他的な行動が示せればよい。ただし、本書でもいくつかその例が挙げられてはいるが、ホップス主義の考えからするといくらでも再反論が可能に思える*2

 より強力で理論的なホップス批判は、「〈人間は自己保存に役立つ事柄を欲求し、その反対物を嫌悪(回避)する〉という単純な行動原理(14)」のみで人間のあらゆる行動を説明する考えを批判することだ。ここでは人間の行動が衝動レベルと反省レベルに分けられ、衝動レベルの食欲や性欲などの単純な欲求の追求とは異なる、反省レベルの「自愛Self-love」という概念がバトラーによって導入される。

 衝動レベルの欲求について、「食欲や性欲それ自体は、快楽を追及しているわけではない(15、太字は原著では傍点部分)」ことに注意が必要とされる。つまり、衝動は快楽や幸福を目的としているわけではなく、それに従うことで私達は殻ずしも幸福になるわけではない。私たちは様々な欲求を反省的に取捨選択しながら、日々の満足を得ている。すなわち、「自愛」によって欲求をコントロールしている。その中で、善意のような利他的な欲求を選択することもあり、その選択が結果的に自分の快楽や満足に繋がることもある。だが、それを食欲や性欲を(時には善意を押し殺して)満たすことと同じように利己的である、と言うのはおかしい、とバトラーは批判する。

 こうしたホップス主義の考えは「心理的快楽説(心理的利己説)」と呼ばれ、本書ではこうした直観主義からの批判によって「息の根を止められた」というC・D・ブロードの言葉が引用されている(18)。

 

3.デカルトの直観かロックの感覚か

 もう一つの批判は「道徳の人為性」についてである。ホッブス主義は、社会的な契約に基づいて義務を決定する主権者が想定されているのだった。では、これを批判する直観主義者たちは、道徳的義務の存在やそれに従う動機をどのように説明するか。

 直観主義者によると、私たちは行為の道徳的な正・不正を判断し、義務感から行為する能力を持っている。そして、こうした「道徳的能力を道徳器官(moral faculty)の存在によって説明しようとし」、この道徳器官について「理性的直観主義(rational intutionism)」「道徳感覚説(moral sense)」という二つの流れがあるとされている。

 理性的直観主義の思想家たちは、デカルト的な認識論を踏まえている。そこでは「「観念同士の一致・不一致を知覚するのは知性の働きであり、こうした一致関係・不一致関係が知識を構成する」というロックの考え(23)」がひとまず受け入れられ、理性(reason)や知性(understanding)といったものが道徳を看取すると考えられた。しかし、では理性や知性が道徳を看取するのはどうしてか。ここで、デカルト的な直観概念が登場する。直観によって得られた観念は、「論理的に還元不可能であり、理性的存在者にとって自明(26)」とされ、数学や論理と同じように道徳についても根源的で証明不可能な知が存在すると考えられる。

 道徳感覚説の思想家たちは、ロックの認識論を前提とする。そこでは単純観念と、その組み合わせからなる複合観念があるとされ、単純観念は内省か感覚によって得られるとされる。道徳感覚説の思想家であるハチスンは「道徳的善悪は色や味のように感覚によって直接得られる単純観念である(29)」と考えたとされ、善悪も色や味*3と同じ程度には客観的であり得ると考えられている。

 両者は、道徳的な認識について直観か感覚かという違いはあるものの、「道徳的性質が客観的であり、意志に依存しない器官(能力)によって把握される」という考えを

共有している。

 

4.バトラーの良心とリードの常識道徳

 本章では、最後にバトラーとリードの思想が解説されている。バトラーもリードも、理性的直観主義と道徳感覚説を統合するような思想の持ち主とされる。

 バトラーは人間の精神を階層的に捉え、「良心」が最上にあるものとして「行為に関して統治的な位置にある(32)」とする*4。道徳的性質はこの良心によって直観される。リードは「人類共通の判断(34)」であるコモン・センスに基づいた常識道徳によって判断されるべきであると考えた。

 2人はともに、道徳に関する知性的な判断と感覚を統合して論じている。いずれにせよ直観主義に共通するのは「道徳的区別を知覚し、道徳判断を下し、それに基づいて行動する動機付けを与えるもの(37)」として道徳器官を設定している。

*1:「以上のようなホッブス主義は、必ずしも正確なホッブス理解ではないかもしれないが、少なくとも当時の直観主義者たちはこうした理解に基づいてホッブス主義を批判した(11)」という。

*2:「命の期間を顧みず救助を行う人も、トンボが助かって喜ぶ人も、人が死ぬことを見る苦痛を避けたいと考えてそのように行為しているのであり、その意味では、あらゆる行為はやはり利他的である(13‐14)」というホッブス主義者からの再反論も想定されている。なお、「トンボ」とは映画『魔女の宅急便』のキャラクターで、主人公の魔女の少女が助けることで街の人々が歓喜して騒ぐシーンがある。

*3:ハチスンは、道徳的性質を感覚器官の作用で生じるロックの二次性質となぞらえているという(30)。

*4:一階に個々の情念があり、二階に諸情念を指導する善意と自愛という一般原理がある、という考え(32)は明らかにカントと重なっていて興味深い。