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児玉聡(2010)『功利と直観 英米倫理思想史入門』勁草書房 9/10

 今回も以下の本です。

 児玉聡(2010)『功利と直観 英米倫理思想史入門』勁草書房

 本記事は「第九章 生命倫理学における論争」のまとめとなります。



第九章 生命倫理学における論争

 本章では現代の生命倫理学における議論で、功利主義直観主義の論争がどう展開されているのかが扱われる。まずは、ビーチャムとチルドレスによる直観主義的なアプローチが紹介され、続いて功利主義的な思考の生命倫理学に対する影響と、その批判が示される。

1.ビーチャムとチルドレスの四原則と直観主義

 本節では、「米国における生命倫理学の主流の方法論(216)」であるビーチャムとチルドレスによる「四原則アプローチ」が紹介されている。四原則とは「患者や被験者の自律尊重(respect for autonomy)、無危害(nonmaleficence)、善行(beneficence)、正義(justice)(Ibid.)」であり、彼らはこの四原則について「ロス流の一見自明な義務のアプローチを採っている(217)」という。つまり、これらは「個々の状況における従うべき義務を生み出すという意味で、一見自明(prima facie)なもの(Ibid.)」だが、それぞれの原則が対立した場合は「それぞれの原則がその状況において生み出す義務の重さを考慮した上で何が実際の義務(actual duty)であるか(Ibid.)」が決められると考えられている。
 また、ビーチャムとチルドレスは、いくつかの批判を受けた結果、自分たちの理論に「反省的均衡と共通道徳という装置(218)」を取り入れたという。個々の状況で実際の義務を決める作業は、「他の道徳法則や先例や経験的事実などと照らし合わせて行われるべき(Ibid.)」で、それらとの十分な整合性を得ることが求められる。反省的均衡には相対主義に陥るという批判もあるが、これに対しては反省的均衡で求められる熟慮を経た判断を「共通道徳によって基礎付ける(219‐220)」ことで回避しようとしたと考えられている。
 以上のような彼らのアプローチは、基本的にロス流の「多元的な直観主義的アプローチに基づき(221)」つつ、近年になって「ロールズの整合説的なアプローチを部分的に採用するとともに、倫理理論よりも常識道徳(共通道徳)による基礎付けを強調するようになっている(Ibid.)」とまとめられている。その結果、「本書で述べてきた直観主義的な傾向を強めている(Ibid.)」と指摘される。

2.生命倫理学における功利主義

 一方、英米生命倫理学における功利主義の影響については、いささか捻じれた事情があるようだ。「外部からは、生命倫理学は(ヘアに大きな影響を受けた)シンガー的な功利主義が主流とみなされがちであるのに対し、内部の学者はそれを否定している(222)」のだという。その理由について、「生命倫理学者の活動はテキストや本(academic discipline, 学問としての生命倫理)だけではなく、医療現場での意思決定や公共政策(discourse, 実践としての生命倫理)にも及んでいるにもかかわらず、外部の人々の目に付きやすいのは教科書や本だからだろう(223)」というアルバート・ジェンセンの指摘が紹介されている*1。 
 とはいえ、個々のトピックに関しては功利主義的な思考によって書かれた重要な論文がいくつかあるという。これらの論文に共通するのは、「帰結はどうあれ人命を救うことが医療従事者の絶対的義務であるという義務論的思考に対する異議申し立て(224)」を行っていることだ*2

3.功利主義的思考に対する批判

 前節で見たきたように、英勢の生命倫理学に功利主義が与える影響は部分的なものともいえるようだが、こうした考え方に対してはやはり直観主義的な視点からの批判がある。その中には、「「功利主義者の思考法は精神病患者の思考法と同じ」というような、一見するとほとんど人格攻撃に近いような批判もある(225)」という。
 本書で挙げられている例では、「新生児を殺した精神病の母親の推論」と功利主義的な思考による「新生児殺しの正当化」が類似するという指摘がある(226、表9-1)。両者の推論は「論理的には妥当かもしれないが、結論は直観に反するもの(225)」であり、「「合理的だが理に適っていない(rational unreason)」と結論(226)」されているという。この手の批判は、要するに「功利主義は過度に合理主義的(228)」なものであり、「道徳的直観に反する理論は真剣に取り扱う必要はない(Ibid.)」というものだ。
 こうした批判に対する功利主義からの高騰については、アンスコムとヘアの議論が紹介されている。アンスコムは「無実の人を処刑するような行為」を考慮すべきか議論する余地があると真剣に考えるような人は「性根が腐っている」として拒絶するという(228、アンスコムからの引用文章内)。これに対してヘアは、二層理論を用い、二つのレベルで議論すべきと応答する。直観レベルでは、「われわれは「無実の人を処刑すべきでない」というような一般的な規則を実際に持つべき(229)」であり、このような規則を疑う人は確かに性根が腐っているといってよい。しかし、批判レベルにおいては「通常は所与のものとされている道徳規則の正しさを吟味する必要がある場合も存在する(Ibid.)」のであり、「さまざまな可能性を批判的に検討し、最善の選択肢を見出すべき(Ibid.)」と考えられる。このような場合であれば、無実の人を処刑すべきか検討することも、その人の性根が腐っているからだとは言えないとされる。

 以上、本章の内容をまとめてきた。本書でも指摘があるように、本章の記述は「いささか点描的(Ibid.)」であり、その他の章で展開されている議論と比べるとやや物足りない印象を受けるというのが正直なところだ。だが、ここでは功利主義直観主義の対立が、現代の倫理的な課題や実践現場で再現される際のエッセンスが示されているようにも思える。それは一言でいえば、一見すると合理主義的な思考が現実の課題や実践に適用されるとき、私たちが依って立つ何か大切なものを否定してしまうのではないか、という問題ではないかと思う。直観主義者はまさにこの問題意識を突きつけるだろうし、功利主義者はその「何か大切なもの」が独善的なものにすぎないと退けるのだろう。

*1:本書では外部と内部の認識のズレについて、ジェンセンの指摘を紹介するのみで理由の検討にまで踏み込んではいない。だが、これはなかなか興味深い観点に思える。医療などの現場で「実践としての生命倫理学」に携わる倫理学者が功利主義を前提としていないということには、現場で働く人々が従う常識道徳の影響を無視できない、という点が影響を与えているのではないかという予感がする。

*2:「たとえば、消極的安楽死(医療行為の差し控えや中止)は自然に委ねることであるから許されるが、積極的安楽死(致死薬の投与)は殺人であるからたとえ本人が望んでいたとしても許されないという義務論的立場に対して、帰結次第では、消極的安楽死が許されないこともあるし、逆に帰結によっては積極的安楽死が許される場合もあると主張される(224)」