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行安茂(1975)「H. シジウィックの生涯と倫理学」

 先々週は体調が微妙で、先週はちょっと書き物があったのでブログ止まってました。ぼちぼち再開します。

 今回からちょっとの間、シジウィックを勉強したいと思います。日本語でも勉強になりそうな本がいくつかあるので読んでみたいですが、ひとまずはネットで拾える論文を読んでいきます。今回は以下の論文。

 行安茂(1975)「H. シジウィックの生涯と倫理学」『岡山理科大学紀要』10、pp.41-52

 ちなみに、著者の行安さんは道徳教育の研究でも有名で、道徳が「特別の教科」となった経緯にもおそらく大きな貢献をしている人です。その辺は昔ちょっとやってましたが、またちゃんと調べてみても面白そう。


行安茂(1975)「H. シジウィックの生涯と倫理学

 本論文では、シジウィックの生涯と、その倫理学のポイントがまとめられている。生涯についてはここではほぼ省略し、ポイントをまとめておきたい。

1.グリーンとの比較から見るシジウィック

 シジウィックの生涯について、ここでは深く確認はしない。
 彼が1874年に執筆した主著の『倫理学の諸方法』は、「グリーンの「倫理学序説」と並んで19世紀末のイギリス、アメリカにおいて注目された(42)」という。本稿ではシジウィックの人物像がこのグリーンと比較されている。両者は「互いにライバルの関係(43)」でありながら「全く対照的(44)」だったとされる。
 簡単にまとめると、グリーンが大衆的で人気者だったのに対し、シジウィックはアカデミックで退屈な印象を人々に与えていたようだ。シジウィックの人物的な特徴として「哲学者として優れてはいたけれども、行政家としては不適当(43)」「鋭い分析と公平な見方とをかねそなえていた(44)」「冷静な知性(Ibid.)」「科学的気質(Ibid.)」といった表現が与えられている。

2.シジウィックの問題意識

 シジウィックはミルの功利主義を批判的に発展させた。彼は『功利と直観』第4章でも紹介されていたように、「直覚主義に基礎を置く功利主義者(44‐45)」である*1。シジウィックの『倫理学の方法』は決して読みやすいものではないらしく、彼の根本問題を把握しておく必要があるという。それは、「自己犠牲と一般幸福との関係をどのように考えるか(45)」ということだと本論文では考えられ、さらに問題が3つに切り分けられている。

自己犠牲は自己の幸福に貢献するのか?

 自己犠牲とは「他人の幸福のために自己の幸福を犠牲にすること(Ibid.)」であり、ミルによって望ましい徳とされたそれはシジウィックにとっては「英雄的徳(Ibid.)」であったという。つまり、「自己犠牲は望ましい徳であるが、それが「私自身の幸福」のためになるという哲学的確信(単なる実践的熱情から区別された理論的確信)が与えられなければ、それへの行為も動機づけられない(Ibid.)」とされた。自己犠牲と自己の幸福との関係が問題とされたのだ。
 ミルが両者の関係をどう考えていたのか、あるいはそれを問題としていたのか「発見するのは困難である(Ibid.)」という。シジウィックの問題意識は、「ミルがあいまいにした問題に対する答でもあったとみることができる(Ibid.)」とされている。

利益と義務は一致するか?

 シジウィックは、「常識」(Common Sense)を視点として、利益(この場合は私の利益)と義務が一致する可能性を「現実的に確かめていく(45‐46)」という。「世俗的見方によっては幸福と義務との一致は十分ではな(46)」く、「完全な一致は宗教を必要とする(Ibid.)」が、彼は性急な宗教による解決ではなく「「常識」が功利主義に向かっている(Ibid.)」ことを示そうとする*2

私自身の幸福が追求されてもよいのか?

 ミルは一般幸福の達成という観点から考えたが、そうであるなら行為者自身の幸福の達成はどうなるのだろうか。シジウィックは、「私自身の幸福」も義務であるとしたバトラーの影響を受け、自己の幸福と他人の幸福の調和を問題としたとされる。
 しかし、単に両者の調和を目指すだけではなく、ミルが混同していた「「各人はかれ自身の幸福を追求すべきであること」および「各人はすべての人の幸福を追求すべきである」という二つの命題(Ibid.)」(前者は「利己主義的快楽主義」(Egoistic Hedonism)、後者は「普遍的快楽主義」(Universalistic Hedonism)と呼ばれる)を、「「各人はかれ自身の幸福を追求している」という「心理学的快楽主義」(Ibid.)」から区別した。ミルは「心理学的快楽主義」から上記の2命題を含むと思われる「「各人は一般幸福を追求すべきである」という「倫理的快楽主義」へと推論を移行させて行った(Ibid.)」というが、どうしてそれが可能になるかがシジウィックの関心だった。
 シジウィックがベンサムやミルの考え方から一歩を踏み出したのは、「「快楽主義の根本的逆説」を「倫理的快楽主義」の根底においている(Ibid.)」からだとされる。また、この逆説が「「普遍的仁愛」以外の諸動機が実は「普遍的幸福」を達成すること(Ibid.)」を可能にするという。

 以上のように、シジウィックの問題意識がまとめられた。次に、「直覚主義」と並んで重要とされる「快楽主義の根本的逆説」が考察される。

3.「快楽主義の根本的逆説」とは何か

 すでに見てきたとおり、シジウィックは「心理的快楽主義」を批判するために「快楽主義の逆説」を指摘するという。本論文では主にミルに対する批判が紹介されている*3

「追及の快楽」と「達成の快楽」

 シジウィックは、「ミルの「快楽」はあいまいな言葉である(47)」と考えているという。それは、私たちの欲求が快楽に「直接的に向うものであるかどうか(Ibid.)」という問題とされる。
 シジウィックによると、私たちは快楽を追求するために「快楽以外のあるもの」を欲求する必要があるという。「快楽以外のあるもの」とは「欲求が向かう対象(Ibid.)」であり、これを得ようとする過程で「快楽は自然と経験される(Ibid.)」。シジウィックはこうした「追及の快楽」を「達成の快楽」と区別する。「達成の快楽」とは「これを達成しない段階においてはまだ予期される快的感情であるにすぎない(48)」のであり、「これが目的であり、われわれをある追及に従事させる原因であると見るのは誤りである(Ibid.)」という。シジウィックの考えを一言でいえば、「目的を達成したときに感じられる快楽よりもそれを達成しつつある活動において感じられる快楽の方が重要(Ibid.)」ということになる。
 以上のように、(将来達成するであろう)快楽の達成ではなく、目的達成の欲求が快楽の源であるという点に1つの「逆説」があると考えられている。

快楽追及の間接的姿勢

 「逆説」のもう1つ重要な論点、特に利己主義的な快楽主義の「逆説」についての問題は、それが「追及の快楽」であったとしても、「快楽を直接的に意識目的としてある事に従事するならば、快楽は後退する(Ibid.)」ということであるとされる。シジウィックは「追及の姿勢を問題にして(Ibid.)」おり、「逆説」には「快楽追及の間接的姿勢(快楽を忘れてある目的を達成しようとするところにむしろ快楽が感じられるという見方)(Ibid.)」が含意されているという。
 つまり、私たちが利己主義的な快楽主義者であるためには、利己主義的な目的(自らの利益)を忘れ、直接的には別の目的を追求しなければならない。これが、「逆説」のもつ、もう1つの意味である。
 この「逆説」は「「人間性の法則についての正当な知識」からきている(Ibid.)」とされる。そこには、バトラーが快楽への衝動と区別した「特殊の外的対象に向う特殊の衝動(49)」という概念の影響があるという。本論文では明示的に指摘されていないが、「自己犠牲と一般幸福との関係をどのように考えるか」という問題意識への1つの回答となるものであろう。

3.シジウィックの「直覚主義」

 続いて、シジウィックの「直覚主義」が検討される。

直覚主義の3分類

 既に『功利と直観』第4章でも見てきたように、シジウィックの直覚主義は3つに分けられる。本論文では「知覚的直覚主義」「独断的直覚主義」「哲学的直覚主義」とされる。これらは「直覚がより深く基礎づけられる段階であり、直覚されることがらの真理がより確実なものとして認識されるところの反省の三段階(Ibid.)」であるという。
 直覚は「行為をそれがもたらす結果とは無関係に正しいとか正しくないとか直接的に判断する能力(Ibid.)」であるが、個人の直覚はしばしば間違いを起こす。よって、何かしらの「尺度」が必要となり、「人類のConsensusによって保障された「道徳的真理の法典」(50)」である「常識の道徳」が求められる*4

哲学的直覚主義と倫理的快楽主義

 さらに、シジウィックは「「常識道徳」はいかなる場合においても誤りはないであろうかという疑問(Ibid.)」を考察するために「哲学的直観」へと向かう。ここでは、「究極目的をどのように考えるかという問題(Ibid.)」に関心が向けられるという。
 直覚には、「外的行為の正、不正について(Ibid.)」の狭い意味の直覚と、広い意味の直覚があるとされる。広い意味の直覚は、1つは「「人はその人自身の善を目ざすべきである」という命題が自明(self-evident)であるかどうか(Ibid.)」が問題となる。つまり、「利己主義的快楽主義」に関する問題である。ここで問題となるのは「全体としてのある人の善(Ibid.)」であり、それは「将来のより大きな善の見地から個々の要素を全体の構成要素としてみることである(51)」とされる。目の前の小さな幸福よりも将来の大きな幸福を選ぶべきか、といった「究極目的」に関する直覚が問題となるのだろう。
 さらに広い意味での直覚には、「自己の善と他人の善の関係をどのように考えたらよいか(Ibid.)」が問題となる。つまり、「普遍的快楽主義」に関する問題である。シジウィックは、バトラーに倣って自らの幸福を義務と考えることでミルを批判したが、その結果として「すべての他の人間の幸福と自分の幸福との関係をどのように考えるべきであるか(Ibid.)」ということが問題となる。結局、シジウィックは「すべての人々の善が平等な目的(Ibid.)」であると考えるという*5

 シジウィックは、「幸福を「究極的善」と同一に考え(Ibid.)」、それは快楽ではあるが単なる感覚的な快楽ではなく、「「望ましい意識」としてみられている(Ibid.)」という。それは「多くの苦痛を含むこともあれば、快楽以外のものを追求することを含むこともしばしばある(Ibid.)」のであり、「徳、真理、自由、美といった理想的目的を「それら自身のために」(快楽を意識することなく)追求するならば、幸福がよりよく実現される(Ibid.)」と考えられている。


 本論文は少々読みにくいところもあったが、以下のように骨子をまとめることが出来るように思える。
 シジウィックは、バトラーの影響を受け、「私自身の幸福」の追求と一般幸福の追求のジレンマを問題とした。シジウィックにとって、一般幸福の追求が個人の幸福追求と背反するということは受け入れがたく、その調和がいかに達成されるかということが主な関心であった。
 その考察から、まずシジウィックは快楽追求は快楽そのものを目的とすることでは十分満足に達成できない(むしろ忘れた方が達成し得る)、という「快楽主義の逆説」を指摘する。さらに、直覚主義を3段階に分け、究極目的に対する根本的な態度を問う「哲学的直覚」の段階において、すべての人々の善を公平に扱うべきであると考えることで一般幸福の追求を肯定するに至った。
 以上のまとめは、今後シジウィックへの理解を深めていくための、1つの基準と出来るように思える。

*1:本論文では「直覚主義」と表記されている。おそらくintuitionismの訳と思われるが、明記されてはいない。

*2:言うまでもなく、この一致のために宗教的なもの(魂の不死と神の概念)を要請したのがカントである。

*3:ベンサムに対する批判としては、要するに「人間が心理学的法則によって必然的に「あの行為の方向」に決定される(47)」という心理学的命題から、その行為の方向を追求するべきであるという倫理学的命題は導きだせないというものだ。いかにもカント的な批判と言える。

*4:本論文の記述は、どの部分が「知覚的直覚主義」と「独断的直覚主義」にあたる説明なのか少々分かりにくいが、個別の直覚が前者、常識道徳を尺度とした直覚が後者と考えていいだろう。『功利と直観』第4章の記述とも符合する。

*5:この考えはカントにもロールズにも通じるように思える。要は「自らを(道徳的に)特別扱いしてはいけない」ということであろう。