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水野俊誠(2019)「シジウィックの 「功利主義」 の批判的検討: 功利原理の 「証明」 とその限界」

 シジウィック3本目です。

 水野俊誠(2019)「シジウィックの 「功利主義」 の批判的検討: 功利原理の 「証明」 とその限界」『エティカ(Ethica)』Vol.12、pp.97-138、慶応義塾大学倫理学研究会

 前回に引き続き、水野さんの論文です。タイトルからして重要な予感がひしひしと。


シジウィックの 「功利主義」 の批判的検討: 功利原理の 「証明」 とその限界

 本論文はタイトル通り、シジウィックによる功利原理の「証明」とその限界が考察されている。シジウィックがミルによる「証明」を批判したことは前回の水野論文で確認したが、そのうえでシジウィックは自らの「証明」を提示する。
 その「証明」は「精神が功利原理を受け入れるように決定する幾つかの考察を提示すること(98)」であり、それは「「明晰で確実な倫理的直観の探求」によって行われる(Ibid.)」という。というのも、これは「倫理学の第一原理としての功利原理(Ibid.)」の「証明」であり、別の前提から推論するような通常の証明方法によっては不可能だからだ。
 シジウィックは、1874年に初版の『倫理学の方法』で「功利原理の二つの「証明」を複雑な仕方で組み合わせて(Ibid.)」おり、これを1879年の論文「倫理学の第一原理の確立」で「同じ二つの「証明」を別個のものとして明確に述べている(Ibid.)」という。本論文では、まず後者における「証明」が確認される。

1.功利原理の「証明」

倫理学の第一原理の確立」

 まずシジウィックの「証明」において重要とされるのは、「自明な命題が自明でない他の命題に対して持つ(Ibid.)」という「認識における論理的あるいは自然的な優位」と、「ある命題が、ある個人が事前に受け入れている他の命題に対して持つ(Ibid.)」という「ある個人の精神(any particular mind)の知識における優位」の区別である。これらに対応する形で第一原理の二つの「証明」が提示される。
 まずは「ある個人の精神の知識における優位」に対応する「証明」が示される。
 それは、ある人が受け入れている(おそらく功利原理ではない)原理が、「限定を付けられた一般的な原理(Ibid.)」であることを示し、それを「一般的な原理で置き換える(Ibid.)」という方法である。この方法に従って、例えば自分自身の幸福を目的とする利己主義は「「幸福一般が追求されるべきである」という功利主義の原理に「自分自分の(幸福)」という限定を付けたもの(100)」とされる。シジウィックによれば「他人の幸福は、自己の幸福と同じように価値を持つ(Ibid.)」ので、自分自身の幸福という限定は「理性の中に基盤を持たない(Ibid.)」。そのため、利己主義者は功利主義を採用するべきであるとされる。この「証明」方法は「対人的議論(Ibid.)」と呼ばれている。
 続いて、「認識における論理的あるいは自然的な優位」に対応する「証明」が示されている。
 それは、「真の第一原理を偽の第一原理から区別するための基準を確立する(Ibid.)という方法である。この基準として「我々が自明であると主張するすべてのものを「明晰かつ判明に思念する」というデカルトの条件(Ibid.)」と「何らかの任意の直観に対する他人の精神との一致(Ibid.)」が考えられている。この「証明」方法は「基準議論(Ibid.)」と呼ばれている。

倫理学の方法』第3部

 ここから、『倫理学の方法』でのシジウィックの議論がいくつかの段階に分けて確認される。まずは本書第3部記述に基づいた、前述の対人的議論と基準議論を組み合わせる形での「証明」である。
 まず基準議論において、自明な命題が満たすべき四つの条件が示されている。

Ⅰ その命題の言葉は明晰で正確でなければならない。……
Ⅱ その命題の自明性は注意深い反省によって確認されなければならない。……
Ⅲ 自明なものとして受け入れられた命題は、相互に整合しなければならない。……
Ⅳ あらゆる精神にとって本質的に同一であるということは、真理のまさに観念に含意されているので、私が肯定した命題の、他人による否定は、その妥当性への私の確信を損なう傾向を有する。そして事実、「普遍的な」または「一般的な」同意はそれ自体で、最も重要な信念が真理であることの十分な証拠になるとしばしば主張されてきた。そして実際に、人類の大部分が信頼できる唯一の証拠である。(101)

 上記4つの条件を満たす自明な道徳原則として、シジウィックは「正義(justice)あるいは衡平(equity)の原則、合理的な自己愛(rational self-love)あるいは慎慮(prudence)の原則、合理的仁愛(rational benevolence)の原則の三つ(102)」があると考えているという*1。言うまでもなく、「合理的仁愛の原則は、功利原理をまさに述べたものである(105)」とされる。
 続いて、対人議論については「利己主義者に対するものと教義的直観主義者に対するもの(Ibid.)」があるという。
 利己主義者に対する議論は既に述べた。「個人の善は、全員の善という数学的全体の一部(106)」であるため、「いかなる個人の善も、普遍の観点から見れば、どの他人の善よりも重要ではな(Ibid.)」く、私たちは「善一般(すなわち全員の善の総和)の一部ではなく、善一般を目指すべきである(Ibid.)」とされる。
 教義的直観主義者に対する議論は、要するに基準議論における4つの条件を満たすことができない、というものである*2。常識道徳における諸規則は、「それら以外の何らかの原理から引き出されなければならない条件や限定を伴う(107)」と考えられている。そして、「真の第一原理として常識道徳以外の何らかの原理を受け入れることに行き着く(Ibid.)」という。

倫理学の方法』第4部

 先ほど確認した『倫理学の方法』第3部における対人的議論に関して、利己主義や教義的直観主義の妥当性をある程度認めつつも、「それらの格率が絶対的に妥当なものではなく、より包括的な原理によって統制・補完される必要があることを示す(108)」必要があるとされ、この議論が第4部で展開されるという。
 特に第3部での教義的直観主義者に対しての対人的議論は「功利原理が常識的道徳の諸規則と並ぶ自明な原則の一つであることしか示さない(Ibid.)」とされる。ここでは「常識的道徳の諸規則が、依存的で従属的な妥当性しか持たないということを示す(Ibid.)」という「消極的段階」に留まっているという*3
 これに対して第4部では、「功利主義と常識道徳との間に存在する積極的な見解を述べる(Ibid.)」という「積極的段階」の議論が展開されるという。これは端的に言えば功利主義によって常識道徳を補完する、つまり、功利主義の考えの下でこそ常識道徳が成立する、といった議論のようだ。ただし、そのために功利主義と教義的直観主義が「完全に一致することを示す必要はな(109)」く、「常識的道徳が功利主義に自然に移行するということを示せば十分である(Ibid.)」という。そのためには、「それぞれのケースで現行の道徳規則が幸福に資する傾向を有することを指摘すればよい(Ibid.)」と考えられている*4 。シジウィックの考えでは、こうした自然な移行によって、「教義的直観主義者は、真の第一原理として功利主義を受け入れる(110)」のだという。
 ところで、教義的直観主義者に対する対人的議論の「消極的段階」では、「常識的道徳の諸規則が自明な命題の四つの基準を満たさない(112)」ということが指摘されていた。つまり、対人的議論の前提として基準議論があるということになる。また、利己主義者に対する対人的議論は、「基準議論において合理的仁愛の原則を自明な原則の一つとして見出す過程で用いられている(Ibid.)」という。つまり、「基準理論は、教義的直観主義者に対する対人的議論の構成要素の一部(113)」であり、「利己主義者に対する対人的議論は、基準理論の構成要素の一部(Ibid.)」であることになる*5

倫理学の方法』第4部第2章に関する解釈について

 本論文は、ここから『倫理学の方法』第4部第2章の解釈を検討している。というのも、「功利原理の証明」という表題を持つようだが、ここでシジウィクは「対人的議論だけを論じているように見える(Ibid.)」からだ。ここまで基準議論と対人的議論を組み合わせて論じてきたシジウィックが、どうしてこの重要な表題を持つ章で基準議論を論じていないように見えるのか。
 この問題に対しては、フィリップス、スケルトン、クリスプの3名の解釈が問題とともに紹介されている*6が、ここでは本論文の結論を簡潔にまとめておく。『倫理学の方法』第4部第2章は「利己主義者および教義的直観主義者を説得するための議論(116)」である。基準議論において功利原理として提示された合理的仁愛の原則は、「一部の利己主義者は普遍の観点を採らない(Ibid.)」のでこれを認めず、教義的直観主義者は「認めるが、それを至上の原理としては認めない(Ibid.)」。よって、両者に対する説得の出来ない基準議論は明示的に用いられていないと考えられている。

基準議論と対人的議論はどちらが重要か

 続いて、本論文では基準議論と対人的議論のどちらが重要かについて、フィリップスとシュナイウィンド*7のの解釈を挙げつつ、「シジウィックは両者を同じように重視している(118)」と結論されている*8

二つの「証明」と哲学的直観主義

 最後に、シジウィックの哲学的直観主義と「証明」の関係が確認されている。
 私たちが何度か見てきたように、シジウィックは直観主義を「知覚的直観主義」「教義的直観主義」「哲学的直観主義」の3段階に分けて考える。真新しいことは無いので細かくは見ないが、本論文ではこれら3段階の関係が「個々の行為、行為の規則、基本原理という三つのレベルに対応している(119)」とまとめられている。
 哲学的直観主義は「単一または複数の原理が自明である(Ibid.)」ということを直観するのであり、それは基準議論における四つの条件を満たすことである。また、シジウィックは対人的議論を「「厳格な批判のテストに耐える数少ない直観の一つとして示すときに用いた推論」と言い換えている(Ibid.)」という。よって、ここでは哲学的直観が「原則などが対人的議論と基準議論によって裏付けられるということに他ならない(120)」とされている。

2.功利原理の「証明」の限界

 ここまで、基準議論と対人的議論という二つの「証明」を中心に議論が展開された。続いて、本論文ではシジウィックの「証明」の限界が示されるが、これは功利原理と考えられた合理的仁愛を認めない利己主義の考えとの対立を中心に展開される。そのうえで重要になるのが、「実践理性の二元性」とされている二つの原則である。

「実践理性の二元性」とは何か

 「実践理性の二元性」とは、端的に言えば「合理的自己愛の格率と合理的仁愛の格率の対立(122)」であると言ってよさそうだ。合理的自己愛の格率とは簡単に言ってしまえば利己主義者が従う原則であり、合理的仁愛の格率は功利原理である。
 これまで確認してきた「証明」、特に『倫理学の方法』第4部第2章における利己主義者に対する対人的議論において、「利己主義者が自らの幸福を普遍的善の一部と見なす必要がある(120)」と考えられているため、これを認めない利己主義者を説得することは難しい。また、利己主義者にとって「自分自身の幸福を社会全体の幸福のために犠牲にするのは不合理(121)」であるため、道徳が完全に合理的であるために「合理的自愛の原則と合理的仁愛の原則との調和(Ibid.)」の論証が求められるが、それは難しい。
 こうした事態を、シジウィックは「実践理性の二元性」(the dualism of the practical reason)と呼ぶようだ。

合理的自己愛と合理的仁愛の対立に関する解釈

 「実践理性の二元性」、 合理的自己愛の格率と合理的仁愛の格率の対立について、本論文ではいくつかの解釈が検討されている。ここは本論文でおそらくもっとも重要な箇所なので、ひとまず以下に列挙する(124‐125)。

 ① 両者は排他的な二つの要求である(対立を強める解釈1)
 ② 両者は非排他的な二つの要求である(対立を強める解釈2)
 ③ 両者は要求ではなく許容である(対立を弱める解釈)

 本論文ではまず「対立を弱める解釈」という③が検討される。
 これら原理についてシジウィックは「欲することが合理的であるもの、合理的に欲されるべきもの(126)」と表現しており、それは「「~しなければならない」という要求よりも、むしろ「~してよい」という許容(125)」を示すという。そうであれば、両者は対立することもあるが「矛盾しているとまでは言えない(Ibid.)」。また、シジウィックは「道徳全体を放棄せずに、道徳を完全に合理化するという考えを放棄できる(126)」と考え「道徳の不完全な合理化」を認めているようであり、これも対立を弱める③の解釈を支持するように思える。
 しかし、本論文では「合理的であることは行われるべきだということを意味するとまでは言い切れないが、少なくともシジウィックは両者を同一視している(127)」と指摘し、この表現は要求を示唆していると考えている。また、「道徳の不完全な合理化」とは、二つの原理が対立する場合はどちらが動機となるわけでもなく、「より強い非合理的な衝動が動機となる(128)」ことと考えられているため、対立自体が解消されたり弱められたりするとは言えない。
 むしろ、シジウィックは「徳(社会全体の利益)と自己利益との対立を「究極的で根本的な矛盾」として述べている(Ibid.)」ため、「対立を強める解釈は、対立を弱める解釈よりも適切である(Ibid.)」とされる。
 では、①と②ではどちらが適切か。
 まず①ではどのように考えるのか。合理的仁愛の格率からの要求とは「あらゆる他人の善を自己の善と同じくらい顧慮すること(129)」と考えられる。一方で合理的自己愛の格率からの要求は「もっぱら自己の善を顧慮すること―言い換えれば、あらゆる他人の善を自己の善と同じくらいには顧慮しないこと(Ibid.)」と考えられる。両者は排他的に思える。また、合理的な行為に関する基本的な原理は「諸格率を互いに矛盾しないように結びつけるものでなければならない(130)」が、合理的仁愛の格率と合理的自己愛の格率が対立すると考えるのであれば、どちらか一方を基本原理とすることで諸格率は矛盾しないように結びつけることができる。
 一方で②ではどのように考えるのか。シジウィックは「人が合理的仁愛の格率の順守すれば報酬を与え、その格率に違反すれば処罰を与える神による世界の道徳的統治(Ibid.)」を措定することで矛盾を実践的に解消できると考えているという*9。しかし、これは①の立場が考えるような論理的な矛盾*10を解消するわけではない。神による世界の道徳的統治を措定することで、両者の対立は解決可能であり、排他的なものではなくなる。
 本論文では、シジウィックが『倫理学の方法』第2部第1章で、利己主義者を「苦痛に対する快楽の最大の剰余をもたらす行為を選択する(131)」人間であると述べていることを挙げ、「他人の善を自己の善と同じくらい顧慮する」という合理的仁愛と排他的であるとまでは言えないと指摘する。また、既に述べたようにシジウィックは道徳の不完全な合理化を認めている。以上から①よりも②が適切な解釈であると考えている。
 また、②の解釈には功利主義と利己主義が対立する場合、「両者を調停することができないということを、はっきりと示している(132)」という点にも意義があると考えられている。18世紀のモラリストたちは「両者が対立するケースで、利己心を抑えるべきであるし、そうすることは不可能ではない(Ibid.)」と考えるが、シジウィックは「利己主義者に対して功利原理を「証明」できないと明言(Ibid.)」する。
 上記の点と、合理的仁愛と合理的自己愛が排他的か否かで別れる①と②の解釈との関連について、記述が乏しく本論文でどのように考えられているのか判然としない。推察すれば、以下のようなことではないか。①の解釈は両者が排他的であると考えるため、私たちはどちらか一方を正しい行為の原理として選択せざるを得ず、合理的仁愛の格率の選択を主張するモラリストたちからすると、合理的自己愛の格率は間違った行為の原理とされるだろう。しかし、②の解釈に基づけば、合理的自己愛の格率は必ずしも間違った行為の原理とは言えない。両者の対立が深刻なのは、そちらか一方が正しく他方が間違っているからではなく、どちらかが正しいとしても他方が必ずしも間違っているとは言えないからである。

シジウィックの「証明」に関する評価

 本論文では、シジウィックの「証明」は対人的議論がその成否の鍵を握ると考えられているは、2つの「限界」があるとされる。1つは「対人的議論は普遍の観点を採らない利己主義者に功利原理を受け入れさせることができない(134)」ということ、もう1つは「教義的直観主義者は、常識の規則が幸福に資する傾向を有することを認めながら、倫理学の第一原理として功利原理を受け入れることを拒否することができる(Ibid.)」ということである。
 とはいえ、シジウィックの「証明」は「ミルによる「証明」よりも大きな説得力を有する(135)」という点、「同時代の教義的直観主義者との論争に決着をつける(Ibid.)」という点、「どのような形而上学的前提にも依拠しないので、どの宗教や学派を支持する人でも一応は受け入れられる」という点において、意義をもつという。
 また、「実践理性の二元性」に関するシジウィックの考えにも2つの意義があると考えられている。1つは、「利己心を利他心で抑えることはできない(136)」という深刻なケースがあることを認識しており、「利己心の根深さを鮮明に捉えている(Ibid.)」こと。もう1つは、「一種の福音主義―あるいは後の全体主義―が課す自己犠牲の義務に一定の歯止めをかけるもの(Ibid.)」だということである。


 以上、シジウィックの「証明」に関するかなり専門的な論文を見てきた。文献解釈に関する細かい論点が多く、重要に思えない議論も見られたが、シジウィック研究の文脈の一端は読み取れたように思う。
 私見ではあるが、シジウィックの議論はほぼカントを功利主義にアレンジしたものに思える。しかし、功利主義に対する利己主義の対立、カント的に言えば道徳法則に対する自愛の原理の対立については、カント以上に問題意識が明確であるかもしれない。言い換えるなら、カントにとってこの対立は(現象界において)具体的な行為を選択する主体の問題であるため、(叡智界における)原理的な道徳法則の優位が揺るがないだろう。シジウィックつねに行為の選択主体である現実の人間(欲望の主体としての人間)を問題としているため、この対立をより切実に見据えている……のかもしれない。

*1:それぞれ、やや様々なシジウィックの言葉を引用されながら説明されているが、端的に表現している言葉を引用し、以下にまとめる。
・正義の原則
「誰かが自分自身にとって正しいと判断するすべての行為は同様な状況に置かれたあらゆる同様な人にとって正しい(102)」
⇒これは「同等な個体を考察すること(103)」によって得られるという。
・合理的自己愛の原則
「人は自分自身の善を目指すべきだという命題(Ibid.)」
⇒これは例えば人生のような「数学的な全体を考察すること(Ibid.)」によって得られるという。
・合理的仁愛の原則
「各人は、他人の善が公平に見られる時により小さいか、自らによって確実ではなく知られ得るか獲得され得ると判断するのでなければ、他のあらゆる人の善を自分自身の善と同じくらい多く道徳的に顧慮しなければならない(104)」
⇒これは2つの合理的直観から演繹される。1つは「一方のケースで他方のケースより多くの善が実現される可能性が高いと信じる理由がなければ、(そう言ってよければ)普遍の観点から、いかなる個人の善も他のどの個人の善より重要ではないという原則(Ibid.)」であり、もう1つは「私は理性的存在者として善一般の個々の部分だけではなく、善一般を――自分の努力によって獲得可能である限り――目指さなければならない(Ibid.)」ことであるという。

*2:例えば、「常識道徳の諸規則を構成する言葉を明確に定義して、それらの規則に科学が要求する確実性を与えようとすれば(自明な命題の第一条件を満たそうとすれば)、人々はそれを普遍的に受容できなくなる(第四条件を満たせなくなる)(106)」とされる。

*3:例えば、「真実を語れ」という格率は「例外と限定を認める規則としてのみ常識によって是認される(108)」し、「正義を守れ」という格率は「その観念を明確にする必要がある(Ibid.)」。また、様々な形での格率の中で「どれが適切かを、教義的直観主義の方法で決定することができない(Ibid.)」とされる。

*4:具体的な例としては「真実を語ること」「憤慨」「純潔」に関する常識的道徳が挙げられている(109-110)が、これらの常識的道徳は基本的には「社会の幸福に資する傾向を有する(110)」が、常識的な義務に反する方が社会的な幸福に資すると考えられる場合(例えば、「真実を語ること」が不幸をもたらすと思われる場合)には、これらの常識的道徳の強制や適用を「ためらう」のだと考えられている。

*5:本論文は、前者から対人的議論の核心は基準理論なのか、後者から基準議論の核心は対人的議論なのか、といった疑問を検討し、それぞれやはり別であると結論付けているが、あまり意味のある議論には思えない。

*6:それぞれの解釈および本論文における評価をまとめておく。
 フィリップスによると、『倫理学の方法』第4部第2章では「利己主義に対する功利主義の擁護論がうまくいかないと初めて明言(113)」されており、「基準議論は利己主義を含むあらゆる競合者に対する功利主義の擁護論としてうまくいかない(Ibid.)」という。よって、ここで「シジウィックは残る選択肢である対人的議論へと向かう(Ibid.)」。しかし、既に見たように基準理論は教義的直観主義者に対する対人的議論の構成要素の一部だったので、基準議論を放棄したのであれば対人議論も放棄すべきではないか。この疑問にフィリップスは、「利己主義者に対して功利原理を「証明」できないとしても、教義的直観主義者に対しては功利原理を「証明」できる(114)」と反論しているという。
 スケルトンによると、基準議論は「功利主義者が自らの原理を正当化するためのもの(114)」なので、利己主義者に対して功利主義者を擁護することに関心がある第4部第2章において基準議論は「その文脈で不適切(Ibid.)」である。また、基準議論は「直観に対する一種の懐疑的な攻撃を防ぐために用いられている(Ibid.)」そうだが、第4部第2章ではこうした懐疑に晒されていないという。さらに、第3部での基準議論は「完全な確信をもたらさない(115)」ので、それをもたらすために第4部第2章では対人的議論が用いられていると考えられている。
 クリスプによると、利己主義者や教義的直観主義者に対して「一層根本的な原理があるということを理解される(115)」ための対人的議論は、いわば「相手が基準理論を理解できるようにすること(Ibid.)」を目的としている。よって、第4部第2章で基準議論は「消えるのではなく、対人的議論の背景にある(Ibid.)」。
 フィリップスの解釈は、本論文であまり評価されていない。『倫理学の研究』第3部で用いていた基準議論を、第4部第2章ではうまくいかないから放棄することは「大きな不整合(115)」であり、クリスプによる基準議論は「消えるのではなく、対人的議論の背景にある」という解釈が採用されている。スケルトンは「基準理論が教義的直観主義者と一部の利己主義者―後に見るように普遍の観点を受け入れない利己主義者―を説得できない理由を明確に述べていない(116)」点、クリスプは「基準議論が対人的議論の背景に隠れ、明示的でなくなる理由を十分に特定していない(Ibid.)」という点が問題であると指摘されているが、本論文は両者の解釈を微修正した立場をとっている。

*7:一般的には「シュニーウィンド」と表記されることが多い印象である。『功利と直観』とかそうでした。

*8:あまり重要に思えないのでここでは細かくまとめない。

*9:まんま『実践理性批判』の弁証論である。

*10:「人が他人の大きい善よりも自分自身の小さい善を選好しなければならない(pをしなければならない)という要求と、人が他人の大きい善よりも自分自身の小さい善を要求してはならない(pをしてはならない)という要求との論理的矛盾(131)」