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日常の中の麻雀 ―アニメ『ぽんのみち』の感想(4話時点)

 アニメ『ぽんのみち』が早くも今期の覇権を手にしたと話題だ(当社調べ)。

ponnomichi-pr.com


 改めて考えてみると、本作のように女の子たちの何気ない日常を描いた麻雀作品は意外と思いつかない*1。第一話の後半では有名タイトルのパロディが多く詰め込まれているが、その多くは麻雀=ギャンブルによる生命を賭した勝負や生き様を描いている。対照的に『ぽんのみち』では、元雀荘の建物を拠点として女の子たちが麻雀などを楽しむ日常が描かれている(少なくとも現時点では)。



 ところで、『ぽんのみち』のパロディ描写はあまり評判がよくない。
togetter.com
 残念ながら、個人的にもこうした感想には大いに共感してしまうところだ。それはまとめでも触れられている「内輪ノリ」の寒さも確かに一因なのだが、そもそも作品の質の違いが影響しているかもしれない。つまり、『ぽんのみち』はパロディ先の麻雀作品たちとは異なる精神に支えられているため、それらからの引用・パロディに決定的な違和感をもたらすのではないか。


 例えば、『哲也』は戦後復興期の日本で、『むこうぶち』はバブル期の東京でギャンブルに生命を賭す人間たちが描かれる。基本的には荒唐無稽なギャグ作品である『ムダヅモ無き改革』でさえ、2000年代以降の政治状況をパロディ化している作品だ。

 要するに、これらの作品は社会や時代を麻雀を通じて裏側から描く側面がある。麻雀をギャンブルとして捉えた場合、作品の舞台設定には社会の裏や闇に生きる存在が関わらざるを得ない。それは日常とは―少なくとも私たちが求めるような「女の子たちの何気ない日常」とは―一線を画するものである。そこには社会の闇や裏もなければ、生き様も死に様もない*2

 そう考えてみると、2000年代中頃に始まった『咲-Saki-』シリーズが現在まで続く大ヒット作品となっていることは当然であるように思える。

www.saki-anime.com

 『咲』の世界で、麻雀はもはやギャンブルではなく、ましてや裏世界のものでもない。彼女たちは自らの生命や財産を賭けて麻雀に挑むわけではなく、一種のスポーツとして麻雀に取り組む。



 現実世界でも2018年にサイバーエージェントを中心としてナショナルプロリーグの「Mリーグ」が発足。同年に中国で(日本では翌年に)サービスを開始した麻雀アプリ「雀魂」も現在まで広く人気のコンテンツだ。ちなみに『ぽんのみち』OPを歌う元乃木坂46中田花奈もMリーグに所属している。

m-league.jp
mahjongsoul.com

 こうした現在の、いわゆる「麻雀ブーム」に『咲』が大きな影響を与えたことは想像に難くない。少なくとも、フィクションの想像力を現実世界が後追いで実現することはしばしば見られる現象である。



 しかしながら、『ぽんのみち』はこうしたものからも一線を画しているように思える。なぜなら、『咲』で描かれるのもまた勝負の世界であり、その中身がギャンブルからスポーツに変化したところで「女の子たちの何気ない日常」を描くことが(描かれることも多々あるとしても)メインではないからだ。

 『咲』の本質はむしろ異能力バトルにある。

 ギャンブルとして麻雀を描く作品では、その強さを「覚悟」や「嗅覚」といった曖昧な概念に依存しがちである。それは、麻雀が基本的には運によって勝敗が決まるゲームであるからだと思われる。勝利の確率や効率を高める技術や知識は確かに存在するが、偶然の要素が極めて多いため難解になるだけではなく(例えば将棋などと比べて)確度が比較的小さい*3。よって、細かい戦術論に裏打ちされるよりも「覚悟」のような曖昧な概念で勝敗が左右される方が理解しやすいし、それは社会の裏側を舞台とする作品の雰囲気ともマッチする。

 だが、スポーツとしての麻雀を描く場合、曖昧な概念に勝負を委ねることは作品の陳腐化を招きかねない。かと言って、全ての勝負を「運がよかった/悪かった」で済ませるわけにもいかない。『咲』の偉大さは、登場人物たちに「異能」とも呼べる非現実的な性質を付与することで、逆説的に合理的な勝負の帰結を提示するところにある*4



 一方、『ぽんのみち』は(今のところ)ただ女の子たちが元雀荘のスペースで遊んでいるだけである。麻雀はやっていなくてもいいし、むしろ麻雀をやっていない時の方が面白いという声もある*5

 では、麻雀は別になくともよいのか。それは単に日常を描くための手段にすぎないのか。

 おそらく、そうではない。『ぽんのみち』は麻雀の楽しさ、豊かさをよく描いている作品である。



 そのことを特に顕著に表しているように思うのが、2話と3話のイカサマ(不正行為)に関するくだりである。2話と3話はともに、登場人物が冒頭でイカサマの夢を見るところから始まる。とはいえ、作中でそれ自体がメインで取り上げられるわけではなく、何気ない会話の中で「こういうイカサマのテクニックがあるんだ」と会話しながら試してみるくだりがあるだけだ。

 個人的にはこのバランスが非常に心地よい。麻雀が生死を賭したギャンブルならイカサマは必要なテクニックの一つだし、スポーツなら単なる反則である*6

 だが、日常的な遊びや会話の中で試されるイカサマはそのいずれでもない。ただ持て余した時間で試してみる遊びでしかない。きっとそのスキルを身につけることはないだろうし、身につけたとしてもゲーム中に使用することもないだろう。その行為は禁止されることはないが意味も無い。

 日常の中の麻雀とはそういうものではなかったか。



 「勝ち負けはどうでもいい」という言葉がある。しかし、勝てば嬉しいし負ければ悔しい。この言葉はそれ自体を否定するものではないだろう。おそらく、その真意は「勝ち負けに意味など無い」ということではないか。

 そう、麻雀の勝ち負けに意味など無い。勝ったから名誉を得られるわけでもなく、負けたから生命や財産を奪われるわけでもない。それでも勝者と敗者は存在する。存在する意味のない勝者と敗者を生み出す無意味な戯れ。それが日常の中の麻雀なのである。



 放課後の教室で、あるいは深夜の研究室で麻雀をしていた時のことを思い返してみる。それは実に無駄な時間だった。しかし、無駄な時間、無駄な勝ち負けを享受する時間ほど幸せなものは無かったのではないか。

 『ぽんのみち』はそんなことに気づかせてくれる作品なのだ*7

*1:単に無知な可能性が高いので教えてほしい。

*2:雀卓の角で頭ぶつけて「命がいくらあっても足りなし子ちゃんじゃわ~」とか言ってEDが流れるくらいがちょうどいい。

*3:もちろん、試行回数を重ねることで技術や知識の恩恵は浮き彫りになるのだが、1つの対戦の勝敗はしばしば運が支配する。

*4:その意味では特殊設定ミステリに近い。

*5:主に僕の声である。

*6:『哲也』等の作品では、基本的にイカサマは「勝つための手段」であり、たとえ不正であっても「された側の落ち度」と評される。一方『咲』では明確にイカサマを否定して競技麻雀の場から排除するエピソードが存在する。

*7:だからパロディはしなくてもいいし、麻雀をしなくてもいい