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『低志会 会報 第2号』感想

 かなり遅くなりましたが、年末にようやく『低志会 会報 第2号』を読んだので感想をまとめます。今回は「ファンシーキャラ」特集。

booth.pm

 なお、本記事の内容は年末の29日から30日にかけての深夜、実家でほぼ誰もいないスペースで喋った内容のまとめです。gdgd部分をカットした音源は下記にあるので暇な人はどうぞ。


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1.「リラックマと、もう死なないもののこと」(オガワデザイン)


 オガワさん自身は明記されていませんが、明らかに弔いや喪の問題を扱っている気がします。

 この文章を読みつつ改めて考えてみると、ファンシーキャラクターは極限まで人格(person)を奪われたキャラクター(persona)という矛盾を内包した存在だと思い至ります。そして、それは私たちが対峙する死者とよく似ているのです。死者を単なる物(corpse)と捉えている人はそう多くありませんが、一方で生者と同じような人格を認めてはいません。というよりも、認めようがないのです。

 人格とは何か。ここでその膨大な議論の渦に飛び込むことはできませんが、おおよそ自らの意志をもつと認められる存在と考えていいでしょう。死者にそれを認めることは普通できない。コミュニケーションをとることができないからです。私たちにできることはせめて「遺志」を尊重するという一方的な働きかけでしかなく、それは生者の「意志」と違って自発的な応答や訂正の可能性が開かれていないという大きな問題があります。

 死者という存在からは、私たちがおよそコミュニケーション可能な人格であれば当然認め得る要素が否応なしに剥奪されている。それはファンシーキャラクターも全く同じだ、とオガワさんは言いたいのはないでしょうか。多分きっと絶対そうかもしれない。


 それは単にファンシーキャラクターがフィクションだからではありません。たとえフィクションに生きる存在であっても、その多くを私たちは意志をもった人格として扱うからです。例えば、彼ら彼女らが夢や希望を持っている......と。私たちにとって、奇妙なことに死者よりもフィクションの登場人物との間にコミュニケーション可能性がより開かれていることになるでしょう。

 オガワさんも書かれているように、ファンシーキャラクターはただ「いっしょにいてくれ」る、私たちに寄り添うだけの存在です。それは私たちが祈り、弔う死者の在り方と非常に似ている。


 もし、すみっコたちが世界を救う旅に出てしまったら、リラックマがカオルさんを養うために働き始めてしまったら、キティちゃんがジェンダー平等に目覚めてしまったら……きっと、そのとき彼ら彼女らは「ファンシーキャラクター」としての本質を失ってしまうように思えてなりません*1


 ファンシーキャラクターとは人間のグロテスクな一面を照射する存在なのではないか。そんなことを考えさせてくれる文章でした。とても明日ちゃんについて孔子がどうのこうのとイカれたことを書いてる人と同一人物とは思えません。人間って恐ろしい。



2.「多摩とカニエの旅」(noirse)


 カニエというファンシーキャラクターがいるのか、とか思いながら読んでいたのですが、ラッパーのカニエ・ウエストのことでした。カニエ・ウエストがファンシーキャラクターだったという衝撃の事実には失禁せざるを得ませんが、それはともかく、この文章の肝は節々で引用された(多分)カニエのLost In The Worldという歌の歌詞にある気がします。

まがいものの人生のなかで
長いあいだもがいてきた
いまこそ偽りのパーティから抜け出して
ほんものの夜を過ごそうじゃないか

 特に私の目を引いたのが、文章の最後に引用されたこのフレーズです。元々は多分英語なので、noirseさんによる翻訳でしょう*2。よって、この引用にはカニエ本人よりも、noirseさん自身の思想や考えが色濃く反映されている気がするのです。


 少し(かなり)話が逸れますが『のび太の海底鬼岩城』を再視聴したときのことを思い出しました。雑にまとめると、のび太たちが夏休みに海底キャンプを楽しんでいると海底人たちに出会って世界がヤバい、という話です。要するにキャンプの話です。そう、キャンプです。

 『海底鬼岩城』では、ジャイアンスネ夫が「沈没船の宝物を見つけに行くぜ!」と海底キャンプを抜け出す場面があります。この逃亡劇は後の冒険へと繋がる重要な転換点であり、ドラ映画の中でもトップクラスの恐怖シーンとして有名です。ただ、僕にとっては2人が「キャンプを抜け出した」瞬間そのものに強く惹かれるものがありました。

 キャンプは楽しい。ドラえもんの道具によって可能となる海底キャンプは、もっと楽しいでしょう。しかし、海底キャンプの醍醐味とは何か。それは、隙をついて水中バギーをかっぱらい「キャンプを抜け出す」ことにあったのではないか*3。そんな風に思うのです。


 歌詞に戻りましょう。「いまこそ偽りのパーティから抜け出して」というくだりから、「そんなことよりパーティ抜け出さない?」という有名なセリフ*4が想起されます。貴族だかセレブだか知りませんが、くだらない奴らが集まって名誉やプライドを誇示し合う偽りの場所。そんなパーティの醍醐味は、偽りの場所から「抜け出さない?」という誘いの中にあるのではないか。そう、海底キャンプを抜け出したジャイアンスネ夫のように。

 要するに、この原稿は偽りの場所から抜け出す可能性の周りをぐるぐるしているように思えるのです。キャンプから抜け出したジャイアンスネ夫は世界を救う冒険に身を投じます。パーティを抜け出した男女もまた、何かしらドラマの中に身を投じるでしょう。きっと、偽りの場所から根本的に抜け出すことはできない。それでも多摩ニュータウンサンリオピューロランドは、ほんの少しだけ抜け出せたかのような気分にさせてくれる。

 そんなnoirseさんの想いが詰まった原稿だったんじゃないカニエ。



3.「ゆるキャラ・イズ・デッド」(安原まひろ)


 ひこにゃんがもはや性の対象ってどういうことですか???


 まぁそれはさておき……「ゆるキャラ」またそれを支える「ゆるさ」という感覚の変遷を的確に捉えた文章に思えます。簡単にまとめると、震災期を経て「ゆるキャラ」は「ガチキャラ」となり、「ゆるさ」もまた失われつつ......と。こうして一文でまとめてしまうと何ともなく思えるかもしれませんが、この変遷は僕たちが本来無視するべきではない問題と重なり合っている気がしてなりません。


 みんな大好き、あずまんことずまひーの『動物化するポストモダン』で、データベース消費という在り方と合わせ「動物化の時代」という時代診断が提示されたことは周知のとおりです。その前提として、社会学者の見田宗介大澤真幸による「理想の時代」から「虚構の時代」へ、という戦後日本の社会分析がありました。

 簡単に言えば、見田-大澤の社会学が試みたことは、戦後日本社会を「非現実(フィクション)」という観点から捉えることです。東西冷戦構造が機能し、社会変革を夢見ることのできた「理想の時代」は新左翼運動の行き詰まり(連合赤軍事件)と共に過ぎ去り、社会変革の夢など見ずともフィクションと戯れて生きることのできた「虚構の時代」もまた、「世界を終わらせる」という馬鹿げた妄想(フィクション)を実現しようとした凄惨なテロ(地下鉄サリン事件)と共に過ぎ去っていく......。そんな大澤の見立てを引き継いで、その後には人々がデータベースに基づく消費行動に没入する「動物化の時代」がやってきている!と考えたのがずまひーです。多分*5


 「理想」から「虚構」へ。そして「動物化」へ。こうした戦後日本の流れは、私たちを支える「非現実」が徐々にリアルティを失い、すり減っていく過程であったように思えます。さらに言えば、見田-大澤ラインによる「非現実(フィクション)」という観点から社会を捉えるという建付け自体が自壊し、本格的な機能不全*6に陥るプロセスだったとも言えます。そのような意味で「動物化の時代」は「現実化の時代」と言っていい*7

 理想が信じられていた時代も、ただフィクションと戯れていた時代も過ぎ去り、私たちにはもはや現実しか残されていないのかもしれない。そりゃ、「ゆるキャラ」も「ガチキャラ」になるはずです。私たちが現実と対峙するための「フィクション」というバッファを失っていくプロセスを安原さんは「ゆるキャラ」に託して語っているのではないでしょうか。


 ところで


 ひこにゃんがもはや性の対象ってどういうことですか???


 安原さんの原稿を読むと、そんなツッコミが自然と心に沸いてきます。しかし、こういうツッコミが想起されること自体、私たちがフィクションを失い、余裕なく現実と向き合って生きていることを示しているのかもしれない。なんと計算づくの巧妙に仕組まれたハイレベルな文章でしょうか。俺でなきゃ見落としちゃうね。



4.「もうひとつの『おにまい』(2)——オオサンショウウオと成熟の問題」(てらまっと)


 文章量が他の人の倍くらいあるガチ論考。まずその分量に笑っちゃいました。さらに、主催なのに一人だけ完全にファンシーキャラ特集を無視している気もしましたが、オオサンショウウオはファンシーキャラなので多分セーフ。

 内容としては、以前てらまっとさんがブログにアップされていた以下の文章の続編のようです。

teramat.hatenablog.com


 今回は、アニメ『おにまい』OPに出てくると思しきメキシコオオサンショウウオが「幼形成熟」の代表例であることを通じ、『おにまい』を通じて「成熟」の問題を考える、という感じ。読んでみて改めて「成熟」が極めて男性的な問題であることを痛感します。

 その背景には、一方では当然ながら男性にこそ「成熟」が求めらるという社会的な前提があるわけですが、もう一方で男性が大きな身体の変容を比較的経験しにくいという生物的な前提も実は大きいのかもしれない。『おにまい』でも扱われている生理(月経)や、妊娠、出産......生物学的に男性という身体を得た人間は決して経験することが(少なくとも現代の科学では未だ)できない身体の変容は、「今までの自分と異なる自分になった」という実感を育む契機になり、そうした変容からいやおうなしに必要となるセルフケアの技法が、「成熟」を導き得る......とも言えそうな気がします(てらまっとさん自身はそこまで明言していませんが)。

 こうした「強制的な身体の大きな変容」が「成熟」の問題を解消し得るなら、創作物でこそ可能になるTSを媒介して「成熟」の問題にアプローチする『おにまい』読解はとてもすっきり腑に落ちます。しかし、それは同時にあまりに都合のよい解釈にも思えるのです。誰にとってか。もちろん、私たち「成熟」できない男性にとって、です。


 本来「強制的な身体の大きな変容」という現象自体は「成熟」の問題とは独立しているはずです。言ってしまえば、いつまで経っても「成熟」した大人になれない私たち(一部の)男性のないものねだりかもしれない。それは文字通り単なる身体の変容の極端な形にすぎず、「成熟」という問題の文脈で身体の変容やセルフケアを語ること自体が、極めて男性的な視点に基づく可能性が高い気がします。

 もちろん、こんなことはてらまっとさん自身百も承知でしょうし、「成熟」の問題として身体の変容やセルフケアを考えること自体が無意味だとか有害だとは思いません。むしろ、「成熟」の問題に囚われた(ある意味では偏った)男性の視点から提起された、ということ自体が重要な意味を持つはずです。

 おそらく非常にハイレベルなことをやっている『おにまい』をめぐる語りは、それぞれの語り手がどのような立場でどんな問題を抱え何に関心があるのか、ということが極めて重要に思えるのです*8。だからこそ、全く別の視点から『おにまい』を語る人が、この「成熟」の問題をどのように考えるのかが非常に気になります*9


 てらまっとさんの文章をめぐって、互いのことを全く共感できない面子による『おにまい』座談会とかめちゃくっちゃ面白いんじゃないかな*10。それはきっと妥協点や合意点を探れるようなものではなく、ひたすら互いにすれ違いながら問いを深めていくような応答になるのではないか、そんな風に思います。

 どこかにいないんですかね......『おにまい』が大好きな批評系女子とか。

*1:けろけろけろっぴの大冒険』っていうゲームが昔あったって?知らん。

*2:軽くggった限りでは、この歌を同じ日本語で訳したものは見かけませんでした

*3:個人的には、「ただの昼寝に「くらげごっこ」という名前をつけて提案するのび太」と「海底に来てまでお風呂に入りたがるしずちゃん」にも惹かれるものがありました。要するに、この映画ではそれぞれが結構好き勝手に「海底キャンプ」を再定義し、独自のやり方で定められたキャンプの在り方(ドラえもんの管理下、非日常という日常)からちょっとずつ逃れようとしていると感じたのです。大長編の物語に回収されないただの戯れという意味では、のび太しずちゃんの行動こそキャンプの醍醐味を感じるに相応しいのかもしれません。

*4:どこの誰がいつ言ったかは知らない。

*5:違うかもしれない

*6:大澤流に言えば「第三者の審級の機能不全」

*7:最近は、「理想の時代の果て」の象徴としての連合赤軍事件、「虚構の時代の果て」の象徴としての地下鉄サリン時間に相応する「現実化の時代の果て」の事件として、京アニ放火事件と元総理大臣の刺殺事件を位置づけられるような気がしています。なぜならこれらの事件は、「虚構の時代の果て」におきたテロ事件と違って、「馬鹿げた妄想が狂気となって現実に襲いかかってきた」ものとして語ることが極めて難しくなっている気がするからです。事件を冷静に捉えるなら「馬鹿げた妄想」でしかありないにもかかわらず、誰もが「現実に起きた事件」としてしか語ることができなくなっているのではないか。そんな風に思うことがあります。

*8:もちろん、どんな作品を語るうえでもそれらは重要なのですが。

*9:私、気になります!(低音)

*10:もしかしたら地獄かも。