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「「ラブコメ・ヌーヴェルヴァーグ」についてのラフスケッチ」についての一解釈

 先日のスペースで、てらまっとさんの「母と子の物語 「ラブコメヌーヴェルヴァーグ」についてのラフスケッチ」(以下、ラブヌヴェ論)について熱いバトルが展開されていた。ラブヌヴェ論は、年末のコミケで頒布される『アニクリ vol.12』に収録されている。





 スペースの議論にあわせて公開されたテキストには、ラブヌヴェ論とそれに対するいくつかの応答が収録されていた。個人的な印象では、これらの応答やスペースでの議論では十分に顕在化していない、あるいは、もしかしたらラブヌヴェ論自体が明示的に語り得ていないかもしれない意義があるように思えた。

 そこで、ラブヌヴェ論を自分なりに解釈してみたい。もしかしたら、それは誤読で曲解かもしれない。それでも、自分なりに感じたポジティブな印象を言葉にしてみようと思う。



 ラブヌヴェ論を素直に読めば、以下のように要約できるだろう。

 「ラブコメヌーヴェルヴァーグ」と呼ぶことのできる作品は「母と子の物語」である。これらの作品では従来のラブコメのイメージと違い、奥手な男性主人公がヒロインにからかわれ、イジられながら「逆攻略」される。こうした特徴を持つ作品が「母と子の物語」と言えるのは、男性主人公を「育成」し、「成長」させる「母」の役割をヒロインが担っているからだ。ヒロインが「からかい」「イジる」過程で男性主人公は挑発されながらも徐々に「成長」し、「男性性の困難」を克服することが出来る。つまり、主人公は「母」としてのヒロインに「育成」されることを通じて一人前の男性=主体として成熟し、自らの意志でヒロインと結ばれることになる。ここにある種のパラドックス、男性主人公の主体的な振る舞いが従属的な関係に支配されているという矛盾を読み取ることも出来るが、むしろそれは可能性である。なぜなら、「自由で自律的な個人」という近代的な理念は、こうした理想化された従属的な関係、「母」としてのフィクションが前提となって成立するからだ。

 以上のようにラブヌヴェ論を要約してみると、「母と子の物語」の果てに「自由で自律的な個人」=「成熟した主体」が生まれるのであり、それが生まれるからこそ(生まれるための物語であるからこそ)これらの作品群が評価されているようにも読める。実際、ラブヌヴェ論に対する複数の応答は、こうした視点、「母と子の物語」を「自由で自律的な個人」を生み出す理想的なフィクションと捉える視点に対する危機感に触れているように思える。一言でいえば、「「自由で自律的な個人」にはなれない(かもしれない)存在」への感受性がそこにある。

 だが、本当に核心は「自由で自律的な個人」を生み出すこと、そこにあるだろうか。むしろ、主人公が「母」であるヒロインに徹底的に従属した「未成熟な主体」であること。ラブヌヴェ論は、それ自体を肯定する(あるいは肯定することができる)のではないか。


 考えてみれば、ラブコメの主人公には基本的に「未成熟な主体」であることが求められるように思える。
 言うまでもなく、ラブコメは主人公が誰かと結ばれると物語が終わってしまう。だから、主人公にはヒロインと結ばれることを「選べない」、あるいは「選ばない」、という態度が必然的に求められる。多くの場合、主人公は複数のヒロインに好意をもつ、あるいは好意を寄せられる。主人公はこれらの好意を正面から引き受けることが出来ない。誰かを選んでしまえば、誰かの想いに応えてしまえば、(少なくともラブコメとしての)物語は終わってしまう。だからと言って、ヒロインと結ばれる可能性を明確に拒絶し、色恋沙汰と無縁な日々を送ることもできない。
 ラブコメの主人公は、決断を下すことができず、「決断を下さないという決断」すらできない。それは、徹底して自由意志の行使を宙づり状態に留め置く「未成熟な主体」ならざるを得ない、ということを意味する。

 とはいえ、私たちがラブコメの主人公を「未成熟な主体」として眺めるとき、そのまなざしの先には「自由で自律的な個人」、すなわち「成熟した主体」が予期されている。主人公は未だ主体的な決断をしない(成熟した人間ではない)が、やがては誰かと結ばれる(成熟した人間として振る舞う)はずであるし、結ばれるべきである、という予期がある。そして、何かしらの決断という形で「成熟」が成し遂げられたとき、ラブコメとしての物語は終わるだろう。

 基本的にラブコメ作品において、主人公は「やがて成熟した主体となることが読者や視聴者に予期される未成熟な主体」としての振る舞いが要求される。よって、作中の主人公の振る舞いはどうしても否定的な意味合いを帯びざるを得ない。(偏見かもしれないが)ラブコメの主人公が嫌われがちなのは、こうした予期を前提としているからではいか。「成熟な主体」である(になる)べき主人公の優柔不断で曖昧な態度が嫌悪の対象となるのだろう。


 一方で、「ラブコメヌーヴェルヴァーグ」の作品群においては事情がやや異なるように思える。そこでは「未成熟な主体」としての主人公が、やがて「自由で自律的な個人」になるという予期を抜きに、それそのものとして肯定的に描かれているように思えるからだ。

 これらの作品で主人公が「未成熟な主体」であるのは「自らの意志による決断を下すことができない」からではない。彼らは「母」であるヒロインに「からかわれ」「イジられる」ことで、その決断や意志が見事に躱されてしまう。彼らが何をしようと、その意図は骨抜きにされ、行為は空回りする。ここでの未熟さは(やがて為すべき)有意味な選択に至らない未熟さではなく、どんな振る舞いも無意味な遊戯と化してしまう、赤子のような未熟さである。自由意志の行使は宙づりのまま留め置かれるのではなく、「母」の掌の上でひたすら空転する。

 要するに、「ラブコメヌーヴェルヴァーグ」とその他の作品では、主人公が「未成熟な主体」であるということの意味が異なるのではないか。「ラブコメヌーヴェルヴァーグ」の作品群にそれまでのラブコメと異なる強い魅力があるのだとすれば、主人公の未熟さをそれそのままに、やがて成熟する(はず)という予期を前提とせずに、快く描くことに成功しているからではないか。よって、主人公の振る舞いも否定的な意味を持たない。全ての失敗は愛すべきものに他ならない。嫌悪感を抱くとするなら、「自由で自律的な個人」として振る舞えない主人公に対してではなく、そのような成熟した在り方への予期も感じさせない作品そのものに対してではないか。


 解釈をまとめてみたい。

 「母と子の物語」は「自由で自律的な個人」=「成熟した主体」を生み出すから理想的なフィクションなのではない。それは「自由で自律的な個人」を生み出そうが生み出すまいが、既にそれ自体で理想的なフィクションである。考えてみれば当然だ。(母)親の子どもに対する態度は、子どもの成長を前提(条件)として成立しているわけではない。子がただそこにいる(泣いている、笑っている)、という事実のみを理由として(母)親は子を愛する(コミュニケーションする)のだから。
 「ラブコメヌーヴェルヴァーグ」においても、主人公がヒロインに「からかわれ」「イジられ」る、その関係がまずもって肯定されている。永遠にこんな時間が続けばいい、と思えるような関係が主人公とヒロインの間には既に成立しているように思える。(母)親と子の関係と同じように。

 「母と子の物語」が「自由で自律的な個人」を生み出す理想的なフィクションであるということは副次的な効果にすぎないのではないか。確かに、「母と子の物語」から「自由で自律的な個人」は生まれるだろう。だが、それは端的な(しかしもちろん重要な)事実だ。個人は、何を理想としようが、その理想が実現しようがしまいが否応なしに生まれる。そして「成熟した主体」は「母と子の物語」からしか生まれない。
 逆に言えば、「母と子の物語」が終わった瞬間、人は例外なく「成熟した主体」であるとみなされる。そして、「母と子の物語」は必ず終わる。これもまた端的な事実だ。

 「ラブコメヌーヴェルヴァーグ」においても、おそらく主人公は物語の終わりで何かしらの決断をするだろう。その結果は何でも構わない。公式作品ではヒロインと結ばれ、同人誌では別の女に寝取られる。あるいは「母」に見捨てられ、鬱屈した自意識を抱えた青年になるかもしれない。それでも彼は「母」の庇護から抜け出した(出されてしまった)以上、「自由で自律的な個人」=「成熟した主体」なのだ。
 それは、多くの場合きっと残酷なことである。だがそれでも、その果てが残酷であろうがなかろうが(現実はほとんど残酷でフィクションも半分くらいは残酷だろう)、それとは無関係に「母と子の物語」はそれ自体で肯定することが出来る。ラブヌヴェ論は、そんな理想を語っていたのではないか。





 余談ながら(と言いつつ真に重要な論点にも思えるが)、てらまっとさんがラブヌヴェ論において影響を受けたであろう、ケア倫理への接続について簡単にいくつか述べておきたい。ここまで述べてきた「自由で自律的な個人」と「未成熟な主体」の関係は、乱暴に言えば「正義の倫理」と「ケアの倫理」の関係に重なると言っていい。よって、今回の解釈はラブヌヴェ論を、ケア倫理を全面的に肯定するものとして読む試みでもあった。

 ケアの倫理は、「自由で自律的な個人」を発達段階の到達点と考えたR.コールバークに対する、C.ギリガンの批判に端を発するとされる。正義の倫理は「自由で自律的な個人」同士による対称的な人間関係を前提とし、「公正」「平等」「権利」といった価値に親和的である。一方で、ケアの倫理は、親子関係のように「ケアするもの」と「ケアされるもの」という非対称的な人間関係を前提とし、「責任」「配慮」「気遣い」といった概念に親和的だ。
 しかし、普通に考えて両者は必ずしも対立するものではない。特に、ケアの倫理が前提とする人間関係においては、基本的に「ケアされる」ものは相手に依存し、「ケアするもの」に様々な負荷がかかる。こうした関係を成立させるためには、「ケアされるもの」の「権利」を保障し、「ケアするもの」にかかる負荷を「公正」に配分しなければならない。正義の倫理の立場からはこのように言える。
 「ケアの倫理」は「正義の倫理」に回収され、からめとられかねない。それはある程度妥当なことにも思える。しかし、ケアの範囲や領域を正義の視点から線引きすることは危うい側面もある。立ち入った議論は出来ないが、正義の倫理を基盤とする原理原則思考を拒否するN.ノディングス(ギリガンと共にケアの第一世代とされる教育学者)について、倫理学者の品川哲彦が記した以下の評を引用しておく。

(略)ケアするひとはケアを分配せざるをえない。害の最小化、いいかえれば、ニーズの充足の最大化の指針はノディングスも支持するだろう。ただし、ノディングスはそれを正義の語り口で語ることを拒否すると思われる。というのも、分配を正義によって正当化すれば、ケアされない人間や乏しいケアしかうけられない人間は、そうした処遇に値しており、豊かなケアをうける権利、ないしはそもそもケアをうける権利や権限がない者とみなされざるをえないからである。(略)。ケアリングの倫理からすれば、すべてのニーズを充足するほどにケアが行きわたらないのは悲しむか惜しむべきことであって、正当化すべきことではない。ノディングスが正義の倫理と原理原則的思考を結びつけて忌諱するのは、そこに裁断する姿勢が感じられるからにほかなるまい。*1

 品川がノディングスを通じて提示しているのは、正義の視点からケアを「裁断」することへの懸念である。こうした懸念が否定できないものである以上、正義とケアの和解は、それが非常にもっともらしく見えるからこそ警戒しなければならない。
 こうした緊張関係を保つことに、「未成熟な主体」をそのまま肯定する視点も寄与するのではないか。つまり、ケア倫理を正義と和解させて肯定するのではなく、ケア倫理そのものを肯定する視点である。


 一方、ケア倫理を「母」と結びつけて肯定することには、長く議論されてきた特有の危うさがある。以下に、先ほども触れたノディングスを「母性主義」の代表として批判するテキストを示しておく。

 ネル・ノディングスは、女性が母親となることを理論展開の基軸にすえる。配慮、他者への関心の価値は女性の価値とされる。その価値は母性愛にかかわる女性の偉大な道徳的感情を表す。出産、そして母親となることが重要なのだ。女性は母性の価値を実現するロボットであり、その価値は女性の本質とされるから、このイメージから外れる女性は、女性として考慮されない。こういった女性の価値を主張することは異性愛を前提とすることなしにはありえない。
(略)
 この自然モデルが、女性たちを公共の場から遠ざけてきた。このモデルは、支配される女性を自然なものとする政治戦略にかかわってきた。このモデルは、女性を女性の自然という本質に閉じ込め、「ケア」における女性の解放の闘いという要素を見失う。母性的であり、母性を実現する女性というモデルは、女性から、男性との平等な解放の可能性を奪う。*2

 ケアを「母性」と結びつけて論じることは、「ケアするもの」の役割を女性に、とりわけ母としての女性に押し付け、固定化しかねない。ラブヌヴェ論も、こうした危うさをケア倫理と共有している。「母と子の物語」を理想化することは、女性に「母」としての役割を望む男性の醜い欲望の表出に過ぎないのではないか、という、いわゆる「母性のディストピア」型の批判が向けられることは想像に難くない(てらまっとさん自身もこの批判をかなり意識しているように思う)。

 ただ、ここで興味深いのは、「ラブコメヌーヴェルヴァーグ」の作品群におけるヒロインの造詣が、一般的な「母性」のイメージから乖離しているように思えることだ。とはいえ、僕自身はあまりこうした作品群に詳しくないので、『高木さん』のイメージに引っ張られすぎているだけかもしれない。しかし、もしかしたら「ラブコメヌーヴェルヴァーグ」におけるヒロインの(「母性」と呼ぶには幼稚にも思える)「からかい」や「イジり」は、主人公の主体性を空回りさせるだけではなく、「母」としてのヒロインを、ステレオタイプの「母性」から解き放つ機能も果たしているのかもしれない。

*1:品川哲彦『正義と境を接するもの 責任という原理とケアの倫理』ナカニシヤ出版、2007、189頁

*2:ファビエンヌ・ブルジュール『ケアの倫理―ネオリベラリズムへの反論』原山哲/山下りえ子訳、白水社、2014、23‐25頁