読書メモとか、なんか書きます。

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祈りの意味-ほとんど娘の話-

 以下の記事に触発されて、少々掴みどころのないことをつらつらと書いてみようと思う。
teramat.hatenablog.com
 ただ、客観的には関係ないように見える文章になるだろう。僕に批評の話は出来ないし、ここでアニメの話をするつもりもない。

 この記事には色んな含意があるけれども、僕としては「ぼくらは、ぼくら自身を救わなければならない」という痛烈な問題意識に対する、藁をもすがる応答に思えたし、それは必ずしも的外れではないようだ。
 なぜ「ぼくらは、ぼくら自身を救」う必要があるのか。それは直接的には自らがなんとか安らかに生きていくためだが、この言葉が出てきた文脈を踏まえれば、誰かの安らかな生を脅かさないためでもある。そうした生の作法のようなものを掘り起こした文章なのだとすれば、やや乱暴に読み取るなら、「せめて安らかに生きるための作法を見つけてほしい」というささやかな祈りが込められているのではないか。
 ここに断絶と接続が複雑に絡み合っているように思えてならない。誰かの残したものが、別の誰かの道標になる。誰もが自分の人生をただ必死で生きているだけなのに、ふとした時にそれが一定の形式を備えた生の作法に見える。それは決して分かりあっていない。むしろすれ違っている。それぞれが自己完結し、自分語りをしているにすぎないようにも思う*1。それがどういうわけか、救いにも見えてしまう。そんな祈りが、誰かに届いているのかすら分からない。
 誰かの自己完結した語りに何かしらの意味を見出す言葉、その祈りはやがて消えていくだろう。そんな気がするのだ。


 個人的な経験から、どうしても娘のことを想起せざるを得ない。

 昨年の8月に娘が生まれた。最近ははっきりと意思表示をするようになったし、何を言っているか分からないけれどよく喋るようになった。妻とは娘のを話すこともある。
 ここ数か月の娘を見ていると、「もう人間だな」とよく思う。怒られるかもしれないけれど、ある時期までの娘は人間よりも動物に近い存在だった。特に娘は低出生体重児だったので、その期間は長かった。もちろん、人間になった娘への愛と動物に近かった娘への愛に何ら差があるものではない。
 穏当な言い方をすると、ある時期までの娘はおよそ人間的なコミュニケーションの対象ではなかった。思考も感情も読み取れない。ただ必死で生きているだけだったのではないか。自分や妻が何かを間違えてしまえば、この小さい命はすぐに消えてしまうのだろう、という危うさだけがあった。今でも分からないことは多いが、こちらに向けて声を出すし、こちらに反応して笑ったり文句を言う。彼女は日々人間に近づいている。
 きっと、成長した娘はそんな時期のことを覚えていない。当たり前だ。僕が気づいた時には自分を人間だと思っていたように、娘もまた自分のことを生まれた時から人間だったと信じて疑わないだろう。家の壁には娘が生まれたばかりの写真がいくつか飾ってある。当時も小さいと思っていたが、見るたびにその小ささに驚く。彼女はその頃を覚えていないどころか、それが自分自身であるということも、自分と同じ種の存在であるということさえも実感できないのではないか。そんな風に思えてならない。
 娘が知っている娘と、僕が知っている娘は根本的に異なる存在ではないか。そんな僕の言葉や想いは娘にどう届くのだろうか。そもそも届くのだろうか。届くべきなのだろうか。


 人は自らを救わねばならないかもしれない。しかし娘はどうか。僕は子どもに過剰な期待を負わせたり、自らの理想を押し付けるような「毒親」にはなりたくない。それでも、やはり娘は「僕が守らねばならない存在」であるとも思う。
 少し前、Twitterで子ども用ハーネスが話題になっていた。それを否定しようと思えば、子どもが自らを救うことに失敗することを、つまり死の可能性をある程度受け入れなければならない。それが受け入れ難いとしたら、子どもの命は誰かが守ってあげなくてはならないだろう。しかし、それは子どもが自らを救う可能性を奪うことでもある。
 だから、誤解を恐れずに言えば、ハーネスに嫌悪感を覚える感覚も僕は分からなくない。ハーネスと過干渉の毒親は、程度の差で決定的な違いがあるのは当然として、緩やかに繋がっている。言い換えるなら、私たちは多少なりとも毒親的であることが避けられない。それを完全に否定して娘を育てることなど、僕には出来そうにない。
 僕に出来ることは、娘を守るという傲慢を、娘の人格に対する越権を自覚し、自制し、いつか娘がその檻から自ら抜け出す日を歓待することしかないのではないか。
 つまり、僕はやがて娘が僕を裏切る日を心待ちにしている。その時、娘が僕にどんな感情を持つのかは分からない。僕の娘に対する言葉や想いは、やはりただの祈りとなって消えていくだろう。いや、消えていかなければならない*2
 僕には僕の生がある。娘には娘の生がある。他者の生に責任を持つことは出来ない。娘の人生にさえ僕は責任を持てない。ならば祈るしかない。僕はそれを見届ける前に死んでしまうのだから。


 しかし、これは非常に無責任な考えではないか。祈りがやがて消えていくことを他人事のように望むのではなく、より積極的に娘の生を自ら引き受け、責任を持つべきではないか。実際、僕の言動や態度は娘の生に大きな影響を与えるだろう(より多くを僕以外が与えるだろうが)。それを、ただ祈るしかない、など言うのは無責任であり、そんな人間は親になるべきではないのだろうか。
 祈るしかできないと言うならば、祈りの言葉など残さず、それぞれ自分自身の生を生きていけばいい。しかし、どうして僕たちは祈らざるを得ないのか。素朴に考えれば、その答えは特に難しくない。それは人間が一人で生きていくことは出来ないからだ。そしてきっと、一人で幸せになることも出来ないからだ。
 だったら、やはりそうした他者の生を引き受け、共に生き、その責任を果たすべきだろうか。そうした責任のある態度、倫理的な生き方が求められるだろうか。


 そもそも倫理的な生き方とは何だろうか。

 多くの倫理学説は利己的な欲求の制限という形式を備えている。「汝の意志の格律が常に同時に普遍的立法の原理として妥当し得るように行為せよ」というカントの命題も、「最大多数の最大幸福」という功利主義の原則も、単なる自己利益の追求を超えた意欲を人間に求める。そこにはおそらく、人間は一人で生きることは出来ない、あるいは一人で生きるべきではない、という根源的な直観が潜んでいる。
 つまり、倫理や道徳は、私の生を自己充足させるのではなく、外側へと開いていくことを要求する。それはある種の「幸福論」も同じだろう。人間は一人で幸せになることは出来ない。誰かと共に生きることで真の幸福が得られるのだ、と。
 こうした自己充足からの脱却、あるいは広がりはまずもって空間的なイメージでとらえることが出来る。自分一人から家族や友人、地域、国家、地球市民へと。人類全体が遍く幸福になれば必然的に私も幸せに生きることが出来るだろう。カントの定言命法は宇宙人にも当てはまる、と語る大学教授もいた。
 そのイメージを時間的に捉えなおせば、世代間倫理の問題につながる。「誰かと共に生きること」が真の幸福なのだとしたら、私の死後も生き続ける存在とそのさらに遠い未来に生を受ける存在、あるいは私より先に死ぬ存在と私が生まれるはるか昔の過去に生きた存在とも「共に生きる」ことこそ、真の幸福に繋がるのだろうか。仮にそうだとして、それはいかにして可能なのだろうか。環境問題や社会の持続可能性といった問題は、表面的な政治の議論はさておき、本来はこうした問いを基盤に成立するはずだ。

 しかし、こうしたイメージは何か大事なことを見落としている気がする。


 娘はまさに僕の死後も生き続ける存在だ。僕が生きる時間と娘が生きる時間は交わらない。だからこそ、娘と生きることで僕は自分の生を拡張していくことが出来るように思える。娘に語りかける時、僕は僕が死んだ後の世界にも語りかけている。
 しかし、そこには僕の生きる時間は僕にとって固有のものであり、生まれてから死ぬまで僕は僕であり僕でしかない、という暗黙の前提が隠れている。だが、本当にそうなのか。実は、僕の生きる時間というのは、僕の姿をした無数の他者=《僕》の集合体なのではないか。そう考えるなら、《僕》と娘は僕にとって共に他者であるという意味で等価だ。
 ようするに、《僕》とは過去や未来の僕自身であり、それは僕にとって他者なのではないか。僕が僕の生を自己充足させて生きるためには、そうした他者である《僕》とも向き合わなければならない。それは、実は娘と向き合うことにも等しいのではないか。


 そろそろ結論を述べようかと思う。

 倫理は、自己充足からの脱却を要求すると述べた。それは、自分の生を外側へと開いていく空間的なイメージで捉えることができ、それを時間的に捉えなおすことで世代間倫理のような問題に接続すると考えられた。
 しかし、僕の生を自己充足させるためには、様々な時間的位相に生きる《僕》と向き合わなければならない。つまり、生の自己充足は、そもそも時間的な広がりを持っている。その広がりを《僕》以外の他者に向けること。娘に、妻に、友人たちに、Twitterに沸くおじさんたちに向けること。そんな風に倫理を捉えることが可能ではないか。
 だとしたら、倫理は自己充足の単なる克服ではなく、その時間的な広がりを空間的に転移することだ。そう考えると、祈りは極めて倫理的な試みに思える。何故なら、僕たちは直接的には誰かのために祈るわけではない。他でもない僕たち自身のために祈るからだ。「ぼくらは、ぼくら自身を救わなければならない」という言葉を思い出してほしい。救うべきなのは、まずもって自分自身である。そのために僕たちは祈る。藁をもすがるように祈る。

 だから、祈りの言葉は消えていく。それは本来、祈る人のための言葉でしかないからだ。よって、祈りの言葉が奇跡的に(空間的に転移されて)誰かの救いになったとしても、その声はやがて消えていかなければならない。


 僕も祈ろう。性癖を語るおじさんたちが今日も日々生きることを。存在しなかった青春の成仏を。フィクションの世界で選ばれることのなかった女の子への愛を。そして、娘が幸せになることを。僕自身の幸せのために。

*1:元の記事に対するいくつかの反応を見ると、その印象が強くなる。特に若い人たちの文章は、それぞれの実存に絡んだ語りをし、互いにその語りは自己完結しているように思う。にもかかわらず、いや、だからこそ、それがまた別の誰かにとって救いになるかもしれないという逆説があるのではないか。

*2:補助線として、こちらの記事を差し挟んでおく。 note.com  「その祈りは、祝いであると同時に、呪いでもある」という指摘は示唆的だ。
 僕は祈りの言葉が「消えていくだろう」と書いたが、もしかしたら消えないかもしれない。そして消えなければ呪いに変わるだろうという予感がある。僕の祈りが祈りとして消えていくということで、初めて娘は娘自身の人生を生きるのではないか。