読書メモとか、なんか書きます。

読書メモとかを書きたいと思ってます。読みたいけど持ってないもの、乞食しておきます。https://www.amazon.jp/hz/wishlist/ls/38X64EIBO2EJ?ref_=wl_share

志の低さについて考えてみたりする

www.youtube.com

 「低志会」という魅力的なワードに惹かれ、スペースを聴講していました。まだアーカイブを聞き返してはいないのですが、記憶を掘り起こしながら「志が低い」という生き方(?)について、強く共感する人間として簡単に思うところを書いてみたいと思います。

 

 入口は、スペースで終始キーワードとなっていた感じがあるpublicとprivateの話です。とりあえず、これらは空間的なイメージで捉えることが出来ます。私を中心として世界をイメージしたとき、きわめて近いprivateの空間と、それを包摂し遥か遠くまで広がるpublicの空間。あるいは、内と外と言い換えてもいいかもしれません。

 内と外と言いつつ、publicな空間はprivateな空間と重なります。publicなものに対するある種の嫌悪感は、まさにそこを支配する理屈や規範がprivateな領域を侵犯する際に催される気がします。外側から内側を踏み荒らされること。「志が低い」生き方には、こうした侵犯に対する戸惑いや憤りが寄り添っているように思えてなりません。 

 とはいえ僕たち(?)は、別にpublicの理屈や規範を否定したいわけじゃない。当然それは大切です。でも、privateな領域に対して、publicな価値の実現が強権的に求められてしまうと、ひどく息苦しく生きるしかなくなってしまう。  

 こうした空間的なイメージを時間的なイメージに置き換えれば、てらまっとさんの語る『けいおん!』の話に繋がります。つまり、privateは「今ここ」や「瞬間」に、publicは「未来」や「持続」に置き換えて考えることが出来る。「未来の人類の繁栄」や「持続可能な社会」を目指した試みによって、僕たちは「今ここ」で享受している生活を諦めないといけなくなるかもしれない。「未来」や「持続」は、 publicの時間的な様相に他なりません。 *1 

 publicの理屈や規範によって、privateが否定される(責められる)のは辛い。しかも、本当の辛さは、それが間違っているとは言えないところにあります。おそらく正しい。と言うよりも、その正しさを否定し得る(少なくとも真っ向から対峙し得る)強度をもった正義など、僕たちは持っていない。怒られたら謝るしかないのです。  


 ここに「志が低い」という言葉の含意を読み取ることが出来ます。自らのprivateな欲望を大事にしつつ、その正しくなさを自覚している。この「正しくなさ」は、直接的には「publicにとって望ましくない」という意味がありますが、「publicに向けて正当化できない」という意味もあるはずです。しかし、望ましくなくて正当化できないとしても、僕たちにはそのように生きることしか、きっとできない。そのように生きることでしか、充実した生はきっとあり得ない。  


 「感傷マゾ」や「青春ヘラ」も、こうした前提をある程度共有しているように思えます。しかし、気持ちよくなる。ここが単純に「志が低い」という生き方と一線を画すポイントかもしれません。単純に低い志は気持ちよさには至っていない。正確には気持ちよさを必要条件としてない、と言うべきでしょうか。少なくとも、そこに気持ちよさを見いださない(あるいは見いだせない)態度には、アイロニカルなナルシシズムを抑制しようとする、一層強い意思が見え隠れしています。なぜなら、こうしたナルシシズム自体が正当化されないことを、「志が低い」人は十分に理解してしまうはずだから。  *2

 

 僕たちのprivateな欲望はpublicにとって望ましくなく、正当化もできない。でもそう生きることしかできない。だったら、せめて気持ちよくなるしかないのか。それも躊躇いがある。「志が低い」とは、そういう生き方に思えます。

 なんだ結局それは開き直りじゃないか、と言われればそうかもしれません。でも、こうも思います。とこかで開き直ることもせず、生きていられるわけがない。僕たちのprivateにそんな強度があるなら、最初からこんな話はきっと生まれて来ない。

 本気でprivateや「今ここ」を守るためにpublicに訴えて戦おうと思うなら、存在しないなけなしの正義を搔き集めて、いっそ陰謀論にでも走るしかないかもしれない。「志が低い」生き方は、そんなナルシシズムの危険に対して、過剰な程に敏感です。自らの罪や加害性にあまりに自覚的であるが故に、志を低く保つしかない。そんな自己抑制的な生き方です。

 

 「志が低い」という生き方は単なる自己卑下にすぎないでしょうか。もしかしたら、そうかもしれません。でも、僕はこんな風に思います。それは、publicに対して、あるいはpublicからの侵犯に対して、志の低さを見せつけることで常に疑問を突きつける生き方なのではないか、と。

 

 でも、publicで堂々とやってる人はそんな疑問に気づきもしないんじゃないかなぁ、とか思えて、つらい。

*1:ちなみに『映画けいおん!』では「〈いつか・どこか〉にありながら、つねに〈いま・ここ〉にあるということ」が描かれているという、てらまっとさんの慧眼が発揮された論考があります。

ロンドン、天使の詩:『映画けいおん!』と軽やかさの詩学 ver. 3.5 - てらまっとのアニメ批評ブログ

ここでの文脈に置き換えると、彼女たちの生き方は、privateの狭さを克服してpublicな世界に踏み出すようなものではなく、あらゆる場所(〈いつか・どこか〉≒ public) を〈いま・ここ〉≒privateにしてしまうものに思えます。ここに、何か新しい可能性が確かにあるような気が、しませんか?

*2:「感傷マゾ」や「青春ヘラ」が単なるアイロニカルなナルシシズムにすぎないとは思いません。というか、自分たちが抱えるナルシシズムが正当化されないという自覚でさらに気持ちよくなる感じがあるので……最強に見えます。