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児玉聡(2010)『功利と直観 英米倫理思想史入門』勁草書房 7/10

 昨日はクソ眠くて寝ました。無理は良くない。今週のうちに終わるのが怪しくなってきたね。
 

 児玉聡(2010)『功利と直観 英米倫理思想史入門』勁草書房

 とりあえずこの本のまとめです。本記事は「第七章 ロールズの方法論的革新」のまとめです。



第七章 ロールズの方法論的革新

 ロールズの登場まで、直観主義功利主義とともに不遇の時代だったとようだ。本章では、有名なロールズの『正義論』において直観主義がどのようにして採用され、それに対して功利主義者たち(ヘア、シンガー)がどのように批判しているのかをが描かれ、それを通じて倫理学の理論構築の2類型がまとめられる。

1.ロールズの正義論とその方法

 有名な話だが、ロールズの『正義論』では「「原初状態」と呼ばれる公正な初期状況(163)」が想定され、ここで採用されるのは「「正義の二原理」と呼ばれる道徳原理(164)」である。本書ではその詳しい内容には触れられず、その中でロールズ功利主義直観主義についてどのように論じたかが記述されている。
 まず功利主義については、一言でいえば「欲求の満足を最大化するものを正しいとする原理」であるというところに批判の矛先が向けられているようである。このような原理は、ロールズの考えだと「「個人のための選択原理」であったものを社会全体の選択原理に拡張した」ものであり、欲求の最大化は「個人が自分の欲求の満足を最大化する」場合には認めることが出来ても、社会全体の原理として用いると「各人の欲求がすべて融合されて、一つの欲求の体系となり、その最大化を目指す」ことになるため、「一部の人々の犠牲の上に全体の善が成立する」という事態が起こり得る(164‐165、太字は原著では傍点)。
 本書では、こうしたロールズの批判はロスなどの直観主義者たちと同様に、「功利主義はわれわれの直観に反するという批判をしている(165)」のだと指摘されている。なぜなら、ロールズは少数者の犠牲を懸念しているわけだが、それは端的に言えば私たちの直観に反するからよくないのだ、という理屈だという*1
 続いて直観主義について、ロールズはその特徴を「複数の第一原理の存在(多元論pluralism)と、原理間の衝突を調停する上位の規則がないことの二点(166)」と考えている。つまり、直観主義は「複数の道徳規則が衝突する場合、どれを優先すべきかという優先順位の問題(priority problem)(167)」に応える術をもたないという問題を抱えている。ロールズはこの複数の道徳規則間の調停を、(ヘアのような)功利主義的な方法ではなく、「複数の道徳原理に辞書的な順序(lexical order)(167‐168)」を付ける独自の方法で示したという。
 こうした順序も正義の二原理と同じように、「原初状態における合理的な選択(168)」によって決定されるとロールズは考えるわけだが、その方法は本章でおそらく最も重要である。ロールズの方法とは、原初状態を想定して道徳原理を選択するだけではなく、その道徳原理が「われわれの「正義について熟慮を経た信念(considered convictions of justice)」に合致するかどうか(Ibid.)」というテストも実施しているという。道徳原理と信念が合致しない場合は、想定された原初状態か熟慮を経た信念のいずれかが修正されるべきであり、その結果、「最終的にわれわれの信念に合致するような道徳原理を生みだす初期状況を設定することができる(Ibid.)」のだという。これが有名な「反省的均衡状態(reflective equilibrium)」の考え方だ*2
 ロールズの反省的均衡の考えは、「自明な前提から出発して体系が作られるというのではなく、全体が整合的になることが目指されている(169)」ものだ。また、原初状態で選択された道徳原理は、「熟慮を経た判断」と呼ばれるものと「反省的均衡状態」を産みだすと考えられているという。「熟慮を経た判断」とは、「十分な知的能力のある成人」が身に付けている「正義の感覚(sense of justice)」*3を十分に働かせた判断であり、曖昧な判断や自己利益に関わる判断が削ぎ落されたものが、(互いに修正されつつ)最終的には「直観的に魅力的な道徳原理」と一致すると考えられている。
 以上のように、ロールズは道徳的直観だけではなく、熟慮を得た信念や判断を取り入れながら自らの理論を積み上げていった。次節,、次々節では、こうしたロールズの理論に対する功利主義者たち(ヘア、シンガー)の批判が扱われる。

2.功利主義者によるロールズ批判(1)――ヘア

 本書で既に登場したヘアの批判は、ロールズが「「隠れ直観主義者(crypto-intuitionist)」であり、その理論構築においてあまりに直観に頼りすぎている(170)」というものだという。
 既に確認したように、ヘアは道徳語の論理的な分析を通じて功利主義を基礎付けていたため、「熟慮を経た判断が必要不可欠だとするロールズの立場とは、方法論の点で全く異なる(171)」。ヘアからすれば、ロールズの理論は「道徳的な問いに対する自分の答えが正しいかどうかは、その答えが自分や周りの人の考えと一致しているかどうかによって決まる(Ibid.)」という主観主義的なものであり、それが支持されているのは「今日(主にアカデミアで)流通している多くの直観を密輸入している(Ibid.)」からにすぎないとされる。
 つまり、ヘアによるとロールズの考えは、「常識道徳に依拠しすぎており、しかもそれがロールズの考えるところの常識道徳であるために、主観主義的な主張になっている(173)」のだ。

3.功利主義者によるロールズ批判(2)――シンガー

 続いて取り上げられるのは、おそらく存命の倫理学者では世界的に最も影響のある人物の1人であろう、ピーター・シンガーロールズ批判である。シンガーの批判は主に3点のようで、まずはヘアと同じようにロールズが「道徳に関する主観主義を採っている(174)」という点、「功利主義が常識道徳に反していないことを示そうとするシジウィックの試みは、反省的均衡の方法と同じ(175)」とするロールズのシジウィック解釈は間違いだという点*4、そしてロールズの正義論は「行為を指導する規範理論というよりも記述理論に近く、それが保守的な方向に働く可能性を持つ(Ibid.)」ということである。
 シンガーによれば、直観的な道徳判断は「あくまで参考程度に留めるという立場を採るべき(176)」と考えており、シジウィックの立場もこのようなものであると考えていたとされる。端的に言えば、ヘアやシンガーの批判は、直観によって道徳理論をチェック・テストするような考えに対する疑義であると言える*5

4.倫理理論の基礎づけ主義と整合説

 本章の最後で、ここまでの論争から浮かび上がるという、倫理学における2つの理論構築の考えがまとめられている。
 1つは、「それ自体は正当化を必要としない基礎的な信念によって他の信念を演繹的に正当化し、理論体系を作っていく」という「基礎づけ主義(foundationalism)」であり、もう1つは「ある信念は整合的な信念の体系に属していることによって正当化される」という「整合説(conherentism)」である(177)。
 20世紀の前半までは基礎づけ主義が優勢だったようだが、「理論構築の基礎(自明で正当化を必要としない信念)と見なされていた感覚による信念(感覚データ)自体が理論に依拠しており基礎的とは言えないという批判(178)」の以降はあまり支持されなくなり、ロールズの反省的均衡によるものなどの整合説が今日では主流だという。ただし、「熟慮を経た信念(すなわち直観)が「証明力(probative force)」を持つことを否定する(Ibid.)」ものや、「相対主義に陥ると論難する(Ibid.)」ものによる批判があるとされる。
 功利主義は明確に基礎づけ主義であり、直観主義もかつてはそうであった。しかし、ロールズにいたって整合説を明確に採用し、両者は現代倫理学の論争へと至っているという*6

 次章からは第Ⅲ部とされ、法哲学生命倫理脳科学といったトピックに焦点化され、現代における功利主義直観主義の論争が扱われる。

*1:「実際、ロールズは、自由や権利の要求と、公共の福祉の増大の考慮を区別し、前者を優先すること(正義の優先性)は、多くの哲学者が同意するところであり、また常識の信念(convictions of common sense)によって支持されるところだと述べている(165)」

*2:これは正義の弁証法とも呼べる考え方に思える。現時点での印象でしかないが、この均衡状態は単なる思考実験の水準ではなく、行為の水準においてこそ成立するものに思える。つまり、「熟慮」とは単なる思考ではなく、道徳的実践の全体を通じてな展開されるのではないか。

*3:「何が正義に適っているかを判断し、そして何故そう判断したかについて理由を説明することができる(169)」こととされる。

*4:シジウィックは常識道徳を重視していても、それによって「道徳理論の方が退けられるべきだという主張はしていない」のであり、彼の試みは「あくまで直観主義者を説得するための対人論法(ad hominem)」にすぎないという(175)。

*5:反省的均衡のような直観と理論の相互修正、という考え方を功利主義的に採用することは可能に思える。つまり、功利原理に基づいた選択と常識道徳に基づいた選択が乖離している場合、それは常識道徳が間違っているか、功利計算が間違っているかのいずれかである、と考えることだ。この場合、たとえ常識道徳に基づく選択が正しいものだったとしても功利原理そのものが否定されるわけではない。常識道徳を「参考意見にする」とは功利計算を見直す契機にすることだと考えれば、方法論としての功利主義は極めて洗練されるように思う。

*6:ロールズ功利主義者たちの論戦は、まるでカントとヘーゲルの代理戦争であるように感じて興味深かった。一般的にロールズ直観主義者というより義務論者として捉えられることがおそらく多いため、カントの現代における代弁者の一人とも言えるかもしれない。しかし、普遍化可能性という概念を理論に取り入れた功利主義の考え方は、根本的な部分でカント的であるように思えるし、少なくともロールズの反省的均衡の考え方はヘーゲル弁証法を思わせる。