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児玉聡(2010)『功利と直観 英米倫理思想史入門』勁草書房 6/10

 週末お休みしましたが、以下の本の続きです。今週のうちに終わりたいね。
 

 児玉聡(2010)『功利と直観 英米倫理思想史入門』勁草書房

 本記事は、「第六章 功利主義の新たな展開」のまとめです。



第六章 功利主義の新たな展開

 本章では、20世紀前半から中盤にかけての功利主義の展開が扱われる。前章の最後に触れられていたように、ロールズが出てくるまでの倫理学理論はメタ倫理学が中心となり、功利主義直観主義とともに勢いをなくしていたようだ。その中で、功利主義は「常識道徳」を背景にした直観主義的立場からの批判を、規則功利主義と行為行使主義という区別を導入するなどして対応し、「功利主義の一つの完成型(160)」と言われるヘアの二層功利主義へと至る。

1.ハロッドによる「革新」

 まずは、直観主義からの批判というものが端的に言ってどのようなものだったのか。それは、「功利主義理論がわれわれの直観や常識道徳に合致していないからダメだという(137)」ものとされる。これに対して、カントの考えを取り入れることにより応答できると考えたのがハロッドという人物のようだ。
 ハロッドの考えは「規則功利主義(rule-utilitarinism)」と呼ばれる立場の基礎となるものであり、彼はカントの原理*1を利用して「一般化(generalization)のテスト(138)」を行うことを主張した。これによって、「「通常の道徳意識」によって支持される義務を功利主義では説明できないという批判に対して、かなりの程度まで反論することができる(139)」と評されている。
 例えば、約束を破ることは常識的に否定されるかもしれないが、ある特定の状況においては幸福の総量を大きくするという意味で功利原理にかなうように思えるかもしれない。しかし、約束を破ったとすると「「約束をする」という社会的に有用な決まりごとがまったく成り立たなくなる(138)」かもしれない。あるいは、ある凶悪な犯罪者に対して正式な法の手続きを踏まず、私刑によって罰する、あるいは廃除するといったことは、個別のケースでは幸福の総量を上げる(社会全体の利益に叶う)かもしれない。だが「犯罪者に対して私刑をしてもかまわない」ということが当たり前になると、力の強いものが恣意的に誰かを傷つけることになりかねず、また法の支配という社会の原則を毀損するだろう。「一般化」のテストによるチェックとはおおよそこのような考えであると思われる*2
 ハロッドの考えは必ずしも新しいものではなく、過去の功利主義者たちも似たような発想をしていることは、ここまで本書でたびたび触れられてきた。いずれにせよ、功利原理を単なる行為そのものではなく、行為の規則を意識して当てはめるような考えの背景には、「「共通の道徳意識」を説明する(140)(140)」という役割を果たそうとする意識があるようだ。

2.規則功利主義と行為功利主義

 直観主義、特に常識道徳を意識した立場からの批判への応答として規則功利主義という立場が出てきたわけだが、それに対する行為功利主義(act-utilitarianism)という立場もまた生まれてきた。
 「行為功利主義」とは、「ある特定の状況において行ないうる複数の行為の中で、最も功利性の高い行為をなすべき(141)」という立場であり、「規則功利主義」とは「「ある一定の状況においては常にある種の行為をせよ」と命ずる規則のうちで最も功利性の高い規則を採用し従うべき(Ibid.)」という立場である。前者は「「特定の状況における特定の行為」についての功利性(Ibid.)」を考えるが、後者は規則の功利性を考え、「個々の行為の正・不正は、この規則に従っているかどうか(Ibid.)」による。本書では規則功利主義者としてブラント、行為功利主義者としてスマートが挙げられている。
 ブラントによると、ハロッドのような「みなが実際に同じ行為をしたらどうなるか(143)」といった形で一般化をテストすると、「規則功利主義と行為功利主義は同じ結論(144)」に至るという。ブラントはこれを修正し、「普通の人に学ぶことができ、他の普通の人々も従う限りで自分も守るような規則(Ibid.)」である「人々が道徳的に拘束力があると認める規則(Ibid.)」に合致する行為が正しいと考えた*3。功利性は規則に関して考えられ、行為の正・不正そうしたは規則を基準として考えられる、という点で規則功利主義には変わりがないが、ハロッドに比べるとやや穏当で誰もが無理なく従いうる規則を採用すべきとブラントは考えるのだろう*4
 一方でスマートの考えでは、行為功利主義者も常識道徳を無視はせず、「経験則(rule of thumb)として常識道徳の規則に従う(145)」のだという。経験則とは過去子経験の蓄積から得られた「通常はそれに従っておけば間違いなような規則(Ibid.)」のことで、功利性を十分に計算をしている時間がない状況での利便性もあり、自身が利害に関わっている場合は都合のよい結論を出すようなバイアスを避けることも出来ると考えられている(146)。しかし、彼にとって「規則はあくまで行為について考慮する際の参考資料(147)」でしかなく、時間不足とバイアスの問題がない場合は行為の帰結にとって判断するべきだと考える。よって、行為功利主義は常識道徳が否定するような結論を支持すること自体に問題はないと考えるだろう。
 以上のように、行為功利主義と規則功利主義の違いは、後者の方が常識的な道徳的直観を説明しやすいという点にあるようだ。本書でも「人々が持つ直観をよりよく説明できることは、道徳理論の妥当性にとってどれだけ重要なことなのだろうか(148)」と述べられているように、直観主義からの批判に対して譲歩しているかのように見える規則功利主義の考えが出てきたことは、功利主義理論の発展ではあるのだろうが、功利主義のエッセンスから離れていっているのでは、という疑問も個人的には残る。いずれにしても、直観を理論の妥当性をテストとして用いることの妥当性については、後ほど扱われる。

3.ヘアの二層功利主義

 続いて、規則功利主義と行為功利主義を踏まえたヘアの二層功利主義が扱われる。ヘアは道徳判断を一定の合理性従う命令であると考え、「道徳的理由は普遍化可能なものである(150)」とっした。これはある特定の道徳判断の理由には「普遍可能性」が含まれるということであり、彼はこうした「普遍的指令説」と呼ばれるメタ倫理学的な立場から、規範倫理学としての功利主義を支持するという。
 普遍化可能性からは「各人の立場に立って考えることと、それぞれの利益について等しく考慮すること(Ibid.)」が要求され、道徳判断が命令であるということからは「各人の立場で、当人の欲求に照らして道徳判断が受け入れられるかどうかを考える(Ibid.、太字は原著では傍点)」ことが要求される*5。こうした「道徳の言語の論理(151)」に基づいて、私たちは功利主義を実践していると考えられている。
 さらに、功利主義そのものについては「二層理論(two-level theory)(Ibid.)」を提示したとされる。それは、道徳的思考や判断において、「一見自明な道徳規則を個々の状況に適用する(Ibid.)」ような「直観レベル」の思考と、「これらの諸規則が衝突するような困難な事例が生じた場合(Ibid.)」に先の立場交換を通じた功利主義的思考を実施する「批判レベル」の思考、という二層によって道徳的思考や判断が成り立っているという考えだ。直観主義は、「道徳的思考に一階のレベルの思考しか認めず、道徳規則間の衝突を解決するすべを持たないこと(Ibid.)」にあり、この場合の道徳規則とは単なる経験則ではなく、規則功利主義が考えるような功利性を考慮に入れたものとされる。
 以上のように、ヘアは「行為功利主義と規則功利主義の論争に対する一つの有力な解決策を提示した(152)」とされる。この論争自体が直観主義からの批判に応答するためとされたことを考慮に入れれば、(あくまで功利主義の立場からではあるが)功利主義直観主義の論争に対する解決策とも言えるだろう。また、本書では「シジウィックが「哲学的直観」によって功利主義を基礎付けたのに対して、ヘアは「べし」や「正しい」といった道徳語が持つ論理的性質に関する「言語的直観」を用いて功利主義を導出した(152)」とされる。これは、具体的な道徳に関する直観ではないが、道徳的な議論の前提となる共通理解に関する直観である*6

4.思考実験を用いた功利主義批判

 本章の最後では、功利主義批判の議論における傾向と、功利主義からの応答の形が確認されている。
 今日の倫理学では、「直観製造装置」(intuition-pump)と呼ばれる架空の具体例を用いた思考実験(tought experiment)が実施されることが多いとされる。こうした架空の具体例は、往々にして「功利主義の結論を、われわれの「共通の道徳意識(common moral consciousness)」に照らして不正である(155)」と指摘するものだという。この手の議論の構造ga、以下の三段論法によって示されている。

大前提:健全な直観に反する道徳理論は受け入れられない。
小前提:功利主義は、健全な直観に反する道徳理論である。
結論:功利主義は受け入れられない。(Ibid.)

 これに対する功利主義からの応答は、以下のようになる。(156)

(1)小前提への反論
 (1a)実際には功利主義は常識道徳と同じ結論を導くと主張する
 (1b)「共通の道徳意識」を重視した規則功利主義による新たな定式化を行う
(2)大前提への反論
 (2a)そもそも常識道徳の方が間違っているという風に応じる
 (2b)このような事例を用いた批判のあり方そのものを批判する

 このうち、(2b)についてはやや詳細に扱われているが、一言でいえば「架空の事例において功利原理が導く結論が、現実世界の直観に反することは、功利主義的には全く問題ない(157)」ということである。なぜなら、架空の事例においては現実世界とは異なる直観が常識となる可能性があるため、功利主義が導く結論と比較するべきなのも、そうした現実世界と異なる架空世界の人々の直観だからだ。
 また、ヘアの二層理論からすれば、「直観に反する」といってもそれが「直観レベル」の話なのか「批判レベル」の話なのかがまず重要である。直観レベルであれば、「われわれの直観は、日常的な道徳的問題を解決するようにチューニングされている(158)」ので、具体例は実際に起こりうるようなものでなくてはならない。本書では誰も知らない浮浪者の心臓と腎臓を生き延びるためにそれぞれ心臓と腎臓を必要とする2人の患者に移植すべきか、といった事例による功利主義批判が挙げられている。「1人の命を犠牲にして2人の命を救うか否か」という問題設定で功利主義的には1人の命を犠牲にするだろうという想定をしているわけだが、現実は単純ではなく、浮浪者がどんな人物か医者たちがどう判断するのか、他に代替方法などがないのか、それを実施した場合の社会的影響がどうなるか、等考慮すべき点は多い。そうした問題を全て捨象して「1人の命を犠牲にして2人の命を救うか否か」という問いが成立する状況を想定すると、それはどんどん現実から乖離してしまうだろう。
 そして、「実生活では考えづらくとも、論理的には起こりうるという事例’(159)」としてこのような具体例を扱うのであれば、それは直観で対応できるものではなく、批判レベルでの検討を必要とする。批判レベルでは「どのような直観(あるいは一見自明な原則)を持つべきか(Ibid.)」が検討されるため、「直観に反する」という批判は意味がない。要するに、ここで具体例は「論理的に起こりうる世界」という現実とは異なる世界での出来事なのだと考えればいいだろうか。
 以上のように、「功利主義的思考と直観主義的思考の「住み分け」を行った(160)」というヘアの二層論理はなかなかに隙がない*7。これに対して、ロールズは「直観と道徳理論の関係に関する考察をさらに洗練させ(Ibid.)」、功利主義を批判したという。ロールズについては次章で扱われる。

*1:ハロッドの言う「カントの原理」とは「この行為が重要な点で類似したすべての状況で行われたら、社会がその目的を達成するために確立された方法は破綻を招くだろうか」という問いであるようだ(138)。

*2:この「一般化のテスト」とは、そのままカントの定言命法に含意される「普遍化可能性のテスト」のことであると考えて差支えないだろう。後にも触れるが、規則功利主義の考えを導入した功利主義理論は、カント的な道徳法則を根本原理として導入した功利主義理論であると言わざるを得ないように思える。

*3:ブラントが修正した定式は、カントの定言命法が含意する「普遍化意欲可能性のテスト」と考えて差支えないように思える。カントのこの原理は、果たさないことが悪徳(-)とは言えないが果たすことで有徳(+)となるような「不完全義務」に関係するということからも本質的には同じものではないかという気がする

*4:嫌な言い方をすれば、常識道徳を重視する考えに対して、より一歩進んで譲歩したとも言えるだろうか。

*5:もはや言うまでもないが、定言命法の「普遍化可能性のテスト」と「普遍化意欲可能性のテスト」のバリエーションに思える。

*6:本書では、ヘアの直観が直観主義者のそれとは異なりつつも、シジウィックと同様に功利主義理論の基礎に言語的直観が存在することに留意すべきとされている(152)個人的にはこの本質は単なる言語的直観ではなく、人間存在のあり方に対する存在論的直観であるように思える。

*7:ただ、個人的には純粋な功利主義ではないのではないかという疑問はあるが。