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児玉聡(2010)『功利と直観 英米倫理思想史入門』勁草書房 8/10

 もうすぐ終わりそうですが、今回も以下の本です。
 

 児玉聡(2010)『功利と直観 英米倫理思想史入門』勁草書房

 本記事は「第八章 法哲学における論争」のまとめです。



第八章 法哲学における論争

 これまで本書では功利主義直観主義の論争を中心に英米倫理思想史が描かれてきた。本章からは、ここまでの論点を基に現代における倫理学的論争が扱われている。本章では、同性愛と売春に関する「ウォルフェンデン報告」を受けた法哲学論争(「ハート・デブリン論争」)が取り上げられ、そこに功利主義直観主義の論争のエッセンスが含意されていることが示されている。

1.ウォルフェンデン報告

 「ウォルフェンデン報告」とは、1957年に英国で「同性愛と売春を規制すべきかどうか(183)」について検討され、「成人同士の私的な同性愛行為の非犯罪化を勧告した(Ibid.)」報告書である。この報告書の社会的な反響は大きく、法哲学者と裁判官の間で「ハート・デブリン論争」と呼ばれる法と道徳の関係をめぐる論争が勃発したという。本書によると、この論争は「功利主義直観主義の論争という、英米倫理思想史において長く続いている論争の一側面(184)」として理解することが可能である。
 本書では報告書が出された時代背景も記述されているが、その部分は割愛し、勧告内容を簡単にまとめておく。報告書を提出したウォルフェンデン委員会は、同性愛行為を犯罪と見なすかを検討し、当時犯罪とされていた男性間の同性愛行為について、「(1)小児に対してなされる場合、(2)公共の場でなされる場合、(3)成人同士で私的な場でなされる場合(188)」に分け、(3)については非犯罪化されるべきであり、それによって諸々の有害な影響が起こり得るという懸念*1を退け、「社会と法律は私的道徳に関して選択と行為の自由を認めるべきだと主張(Ibid.)」した。
 この主張の前提として委員会は刑法の役割を規定しており、それは「公序良俗を維持し、市民を深いまたは有害なものから守り、人々(とりわけ若者や障害者などの社会的弱者)を搾取や堕落の危険から守る手段を提供すること(Ibid.)」であり、こうした役割を越えて「市民の私的な生活に介入したり、特定の行動様式を強制しようと試みることは刑法の役割ではない(Ibid.)」ため、「特定の性行動が罪深いとか、道徳的に不正だとか、良心や宗教的・文化的伝統に反するがゆえに非難に値するといった理由は、刑法によって罰する根拠にならない(Ibid.)」と考えたという。
 おそらくここで重要なのは、この報告書が特定の性行動に対する「罪深い」「不正である」といった道徳的な判断そのものを否定するわけではなく、法がこれらの道徳的判断に介入することを否定している、という点であろう*2。本書が引用している報告書の表現を借りれば、「法の知ったことではない私的な道徳と不道徳の領域が残されてなければならない(189)」と考えられていると言える。

2.ハート・デブリン論争

 以上のようなウォルフェンデン報告をめぐり、法哲学者のハーバート・ハートと、現役の高名な裁判官であったパトリック・デブリンによる「ハート・デブリン論争」が巻き起こる。
 まずは、デブリンが「法の知ったことではない私的な道徳と不道徳の領域」の存在を認める報告書の考え方を批判する*3。彼の考えでは、このような領域に対しても「法は「公共道徳(public morality)」を守るために介入する(192)」ことが可能である*4つまり、「法は原則として人々の不道徳な行動に干渉する無制約の権限を有して(193)」おり、「犯罪と罪悪の領域を判然と分かつ試みは誤っている(Ibid.)」とされる。ただし、デブリンは不道徳をすべて法律で罰するべきと考えているわけではなく、立法者や裁判官は、寛容などの一般的原則を考慮に入れて「柔軟に対応すべき(Ibid.)」と考えているという。
 デブリンの主張は「社会には公共道徳が存在し、社会を崩壊(disintegaration)から守るためにそれを法によって強制することが許されるが、その際には、寛容の原則などを考慮に入れて柔軟に判断しなければならない(194)」としてまとめられているが、公共道徳の存在を知ることや、柔軟な対応によって法規制のバランスをとることはどのようにして可能になるのか。この点についてデブリンは、「「道理の分かる人」という基準(ibid.)」を持ち出し、「陪審員―日本でいえば裁判員―を務める人の下す判断が公共道徳の現れだ(195)」と考えるという*5。このような基準に照らして、同性愛も「それが寛容の限界を超えるような忌まわしき悪徳であるかどうかと自問すべき(196)」であり、公共道徳によって限界を超えたものと判断されれば、「理論的には法による介入が正当化されうる(Ibid.)」と考えられている。
 一方でハートは、デブリンのように「不道徳な事柄をそれが不道徳であるがゆえに罰する立場(197)」を「リーガル・モラリズム」と呼び、対して報告書はミル(子ミル)が定式化した「他者危害原則の立場に基づいている(Ibid.)」とする。他者危害原則の立場に立つならば、一般的に人々が不道徳であると(現に)考えるような行為であったとしても、「それが他人に危害を与えているのではないかぎり(198)」禁止することも、他の道徳的な(と思われている)行為を強制することはできない。
 既に述べたように、ここでの問題は同性愛が道徳的であるか否かということではなく、たとえ同性愛が不道徳であったとしても、そのような行為を法によって規制することが許されるのかということである。いわば「「法によって道徳を強制することは、道徳的に許されるか」という問題(Ibid.、太字部分は原著では傍点)」である。ハートは議論をはっきりさせるために、「特定の社会集団によって実際に受け入れられ共有されている道徳(199)」を「実定道徳(positive morality)」、「実定道徳を含む既存の社会制度を批判するのに用いられる一般的な道徳原則(Ibid.)」を「批判道徳(critical morality)」と呼ぶ。この用語法によって、ここでの問いは「法による実定道徳の強制についての、批判道徳的な問い(Ibid.)」とされる。
 ハートによるとデブリンは実定法を考察することで「実際に多くの法律が道徳を強制している(Ibid.)」ことを示しているが、これは別解釈が可能だという。その1つがリーガル・モラリズムとパターナリズムの区別であり、デブリンいわく「安楽死や同意殺人が許されないのは、人命の神聖性という道徳を法によって強制しているから(Ibid.)」だが、ハートは「本人が自分に危害を加えることを防止するというパターナリズムとして理解することができる(Ibid.)」と考える。もう1つは、リーガル・モラリズムと不快原則の区別である。ハートは「重婚罪は道徳を強制しているのではなく、それを公然と行うことは人々に「不快(迷惑)」であるという理由から正当化することができる(200)」と考える。つまり、「私的には許される行為であっても公然と行うと他人に一種の危害を構成する(Ibid.)」という理由付けが、ミルの立場から可能だと考えられているのだ*6

3.功利主義者と直観主義の論争との関連

 これまで見たきたように、ウォルフェンデン報告やハートの考えは、ミルの危害原則に即しており、「道徳と法についての功利主義的伝統を色濃く反映したもの(202)」とされる。
 実は功利主義の祖ともいえるベンタムも同性愛擁護の文章を書いているという。ベンタムは、同性愛を禁じる動機は「結局、それに対して反感を抱いているという理由しか残らない(203)」と考える。ウォルフェンデン報告でも、同性愛行為が社会を脅かすといった類の主張に対して、「根底にあるのは、「不自然なもの、罪悪的なもの、不愉快なものとみなされている事柄に対する嫌悪感の表明」に過ぎない(205)」と考えられている。すなわち、ウォルフェンデン報告やその支持者たちは、「帰結主義的考慮および議論の合理性を重視すると同時に、一般人の感情あるいは世論を根拠に法的規制を行うことを批判する点で一致している(206)」とされる。
 一方、デブリンの立場はこれと真っ向から対立する。彼は「合理主義的道徳を持ち出すことで、実質的にエリートが自分たちの考えを特権化しようとすることに異論を唱えている(208)」という。デブリンからすると、合理主義的道徳を持ち出す哲学者などの(おそらく知的な)エリートは一般人の感覚を切り捨てるが、「共通道徳から切り離された合理主義的道徳(ハートの言う批判道徳)は、哲学者が「理性」の名の下に勝手に作り出したもの(209)」にすぎないのであって、「共通道徳あるいは常識の中から、良質なところを掬い出し、それをわれわれの指針にする(Ibid.)」のが望ましい。こうしたデブリンの考え方は、これまで見てきた直観主義の思想に通じるところがある。
 以上のように、ウォルフェンデン報告を契機としたハート・デブリン論争において、「道徳において理論が常識に優先するという功利主義的な考えと、常識が理論に優先するという直観主義的な考えの対立(211)」を読み取ることができる。常識道徳をめぐる両立場を踏まえること、つまり、功利主義直観主義の論争を理解することで、「常識道徳を強制することに対するハートの功利主義的な批判と、「合理主義的哲学者」に対して発されたデブリンの警告の意味(214)」を改めて考えることができると考えられている。

*1:「成人間での同性愛を非犯罪化すると、社会の健康を損なう、家族生活に有害な影響を与える、成人間で同性愛行為をする男性は少年にも手を出すようになる、といった反論(188)」

*2:本記事のまとめだけを読むと、まるで筆者や私自身が同性愛を道徳的によくないものだと考えているように受け止められてしまうかもしれないが、報告書が出された当時は英国で同性愛行為が犯罪であり、その背景に(あくまで当時の感覚からすると)同性愛行為が一般的に不道徳であるとされていただろう、ということにすぎない。

*3:ただし、デブリンは「同性愛行為の規制を緩和するという方針については、報告書に賛成していた(191)」という。彼の批判は、報告書の理論的な側面に向けられている。

*4:公共道徳とは「社会の成員の生活やふるまい方についての、社会全体による集合的な道徳判断(192)」のことであり、「共通道徳(common morality)」とも呼ばれるという。

*5:「道理の分かる人」という基準を持ち出すという考え方自体は怪しく思えるが、陪審員裁判員の制度がこのような思想と繋がるという点は興味深い。

*6:実際、ウォルフェンデン報告においても「同性愛行為を私的に行うことは非犯罪化すべきだとしたが、異性間の場合と同様、広場などで公然と行うことは認めなかった(201)」という。