11/11(土)に開催される「文学フリマ東京37」で『明日ちゃんのセーラー服』合同同人誌『蠟梅学園中等部一年 冬休みの宿題』が頒布される。
【お知らせ】
— 舞風つむじ (@maikaze_tumuzi) 2023年10月25日
11/11開催の文学フリマ東京にて『明日ちゃんのセーラー服』合同同人誌『蠟梅学園中等部一年 冬休みの宿題』を頒布いたします。冬服黒セーラーです。嬉しいね☺️
今回も色々ありますが、気持ちSS多めです。原作70話を読んでください。
どうぞよろしくお願いいたします。 pic.twitter.com/HyVyfuyYQa
今回も愛すべき狂った同志たちが参集し、私も僭越ながら寄稿させていただいた。
ただ日々の生活に追われるだけのおじさんに、こうした貴重な機会をいただいた主催の舞風つむじ氏には感謝の念に堪えない。この場を借りて改めて厚く御礼を申し上げると共に、原稿の提出が遅くなったこと、主催だけではなくデザインや校正担当の方々をはじめ、参加者の皆様にも深く謝罪させていただきたい。
ところで私は、昨年の文学フリマで頒布された『蠟梅学園中等部一年 夏休みの宿題』にも寄稿させていただいた。そこでは『明日ちゃんのセーラー服』の主人公である明日小路の実在について考察したが、今回はその続きとして3人のクラスメイトについて語りながら彼女たちの「よき生」について考察している。
ちょっと何を言ってるのかよく分からないと私も思う。せめて『冬休み』の紹介を兼ね、今回寄稿した原稿の背景について語ってみるので、どうか許してほしい*1。
今日まで、ずっと1つのテーマに取り組んで生きてきたつもりだ。それは、矛盾する2つの傾向に引き裂かれながらどのように生きるべきか、という問題である。院生時代から曲がりなりに読んできたカント哲学も、そんな人間の矛盾した在り方を「自然法則/道徳法則」や「現象界/叡智界」といった概念を用いて描いている。あえて簡単に言えば、「叡智界」は「道徳法則」に規定された「あるべき世界」、「現象界」は「自然法則」に規定された「現にある世界」のことだ。
ようするに、人間は「現実/非現実」とも表現できる2つの世界に生きている。カントはそう考えた。私たちは現実と非現実を共に生きている。「現実」から逃れることはできないが、「非現実」を捨て去ることもできない*2。
『明日ちゃんのセーラー服』について考えるとき、私はこの「現実/非現実」という構図に基づいて思考を巡らせないわけにはいかなかった。かつて私は明日小路の実在を問うたが、普通に考えれば明日小路は「非現実」であり、私自身は「現実」を生きている。しかし、本当にそうなのか。むしろ、本当は逆なのではないか。少なくとも逆であるべきではないのか。
「明日小路の生きる世界こそが本来「あるべき世界」ではないのか!?だがそれはどういうわけか「現にある世界」ではないのだ!!」
こうした倒錯を私は抱えている。それはきっと、『明日ちゃんのセーラー服』という作品に狂った同志たちも同じだ*3。『冬休み』もまた、こうした倒錯が見事に昇華された作品がそろっている。
特に私の目を引いたのは、「明日ちゃんのセーラー服、僕のセーラー服」と題された海綿なすか氏のエッセイである*4。詳細は実際に読んでいただきたいが、海綿氏は『明日ちゃんのセーラー服』を「親の目線」で鑑賞することに触れている。誠に慧眼と言うべきだろう。そして、私こそが「親の目線で」『明日ちゃんのセーラー服』を読んでいる読者に他ならない。それだけではなく、事実として私は3歳の娘をもつ親なのだ。
どうしてこんなことになってしまったのか。
とはいえ、私は明日小路と娘と重ね合わせているわけではない。むしろ、当初アニメ視聴時に私が感じたのは「こんな輝かしい青春を娘は経験できるのだろうか(おそらく無理だろう)」という断絶である。しかし、当時の私はこの断絶の正体がよく分かっていなかった。この断絶は、何(誰)と何(誰)が断絶しているのか。
断絶しているのは明日小路と娘ではない。正確に言えば、明日小路と娘は断絶してはいるはずだが、それは私に突きつけられている断絶ではない。「こんな輝かしい青春を娘は経験できるのだろうか」という親目線の問いは、私に突きつけられている真の断絶を覆い隠す仮象にすぎず、本当の問題ではない。
では、本当の問題とは何か。
「あるべき世界」に明日小路がいて、「現にある世界」に私がいる。私が「あるべき世界」へ辿りつけないことは分かりきっているし、万が一辿りついてしまったら、そこは結局「現にある世界」にすぎず、「あるべき世界」ではなくなってしまう。決して辿りつけない「あるべき世界」の情景に「親の目線で」まなざしを向けることの問題とは何か。
私は「あるべき世界」に惹きつけられる。だが、そこに辿りつくことはできない。それで終わりではないか。それ以上、何を問えるか。
少なくとも、「現にある世界」で「現に親である」私が、「あるべき世界」に向けて「親の目線」を向けることの問題は明らかである。私の「親の目線」は、本来、娘に向けるべきものでしかない。「お前は親なのだから、自らの子に親の目線を向けよ」と。よって、ここで覆い隠されている存在が何であるかは明白である。私の娘だ。
しかし、私はここで「戯言をぬかしてないで、親として娘と向き合うべきだ」などと言いたいわけではない*5。いや、もちろんそれはそれで正しい指摘だが、事態はそう単純ではないのだ。
もう一度確認する。「あるべき世界」に明日小路がいて、「現にある世界」に私がいる。では、娘はどこにいるのだろうか。
奇妙なことに、娘がいるのは「現にある世界」ではない。私は私の娘と同じ世界には生きていない。それが、この3年間私が曲がりなりにも父親として娘と向き合ってきた率直な実感である。
考えてみれば、これは当たり前のことだ。私は娘より先に死ぬ。少なくとも、先に死ぬべきである。私の死後に私の世界が続いていくのかは分からない。しかし、私の死後にも娘の世界は確実に続いていくはずだ。私は「死すべきもの」だが、娘は「その死の後にも生きるもの」である。両者が同じ世界に生きていると考えることは難しい。
今や、問題の所在は明らかである。娘もまた、明日小路と同じく「あるべき世界」に生きている。『明日ちゃんのセーラー服』を「親の目線で」鑑賞するとき、私は本来娘に向けるべき目線をこの作品に向けている。それは、娘を明日小路と重ねることではなく、娘の世界と私の世界との断絶を、明日小路の世界と私の世界の断絶に重ねることに他ならない。
私は娘と同じ世界を生きていない。私にとって、この決定的な断絶が『明日ちゃんのセーラー服』の視聴体験・読書体験の背景に潜んでいる。今回の原稿も、このことを念頭に置いて読んでいただけると幸いである*6。
きっと誰もが、何かに「あるべき世界」を求めている。それは「現にある世界」を生きる糧であり、希望でもあり、負債でもある。しかし、その人にとって真に重要であるはずの「あるべき世界」そのものを手に入れることは決してできない。それが私の場合は娘だったが、人によっては将来を誓い合った恋人であったり、存在しない青春であったりするだろう。
こうした決定的な断絶を埋めるべく、同志たちは筆をとったに違いない*7。決して埋めることはできない断絶が私たちを否応なく惹きつける。
きっとまた近いうちに、私たちは各々筆をとる。それは永遠に続く祈りのようなものだ*8。
*1:余計に許されない可能性は低くない。
*2:とはいえ、「私は非現実的なものは嫌いで、現実しか見てましぇ~ん」と言う人もいるだろう(そんな人がこの記事に辿りつくか?)。しかし、この「現実/非現実」という構図は柔軟な幅をもって考えるべきだ。例えば、その射程を「現在/未来」と定めることもできるし、「個人/社会」と定めることもできる。「未来」はいまだに現実となっていないし、「社会」は客観的な実体ではないのだから。また、「人間は否応なしに未来を志向するのだ」と言ったとしても、その意味内容は「人類が辿りつく果てを夢見る」ことから「空腹を満たすため美味しいレストランを探す」ことまで多岐にわたる。
*3:違うかもしれない。
*4:タイトルが既に素晴らしく倒錯している。
*5:「結局お前も現実に帰れと言いたいのか……」「シンエ○ァと一緒じゃないか……」そんな声が聞こえてきそうである。
*6:きっと頭がおかしくなる。
*7:違ったらごめんね。
*8:訳:『春休み』も『秋休み』も楽しみにしています。