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新馬戦予想まとめ(6月)|橙木ライト
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※本記事は2025.01.04 セカンドアフター読書会での課題図書『アメリカと私』のメモである。
『アメリカと私』は、主に文春文庫版と講談社文芸文庫版があるようだが、私が手に入れたのは、日本図書センターが発行している「作家の自伝」シリーズのものだ*1。
まず、私は江藤のことを全くと言っていいほど知らない。おそらく、今回の読書会参加者で『成熟と喪失』を読んでいない人間は私だけだ。私自身はあまり江藤のバックボーンや思想の源に興味がなく、戦後日本思想やそれを支える文化的背景をアメリカのそれとの関係で勉強するつもりで読書会に参加している*2。
よって、この読書メモには、江藤をよく知る人たちからすると当たり前のことが数多く含まれているであろうことを予め断っておきたい。
そんな私でも、読書会前に共有していただいた参考資料が有益な道標となった。資料そのものの評価はできないが、そこでの問題設定は『アメリカの私』での諸々のエピソードとよく符合するものであり、『成熟と喪失』で論じられている(らしい)内容との接合が私なりに見えてきたように思う。
初心者にもやさしいセカンドアフター読書会。最高です👍
なお、本文で特に引用は示さない江藤に関する言及は、これら事前資料及び読書会レジメに依拠している。
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God, give us the grace to accept with serenity the things that cannot be changed,
courage to change the things that should be changed,
and the wisdom to distinguish the one from the other.
(Reinhold Niebuhr, ”The Serenity Prayer”*1)
映画『きみの色』を見てきた。結構前に。
今回の視聴体験はこれまでに経験したことのない緊張感に支配されたものだった。それは本作が極めて美しい映像作品だったことにも起因しているが、それだけでなく、ある意味で奇跡とも言うべき、あまりに偶然的な視聴環境によって私の体験はもたらされたのだ。
その一部始終を報告することから本稿を始めたい。
私が本作を視聴した場所は、名古屋ミッドランドスクエアシネマ2号館のスクリーン10、その一番後ろの席だった。入口から狭いエスカレーターで上がり、そこからさらにエスカレーターで2フロア上がったところにある*2。もし、万が一この場所で誰かが暴れ、刃物を振り回し、ガソリンで火をかけようなら、きっと逃げられなかっただろう。
どうして私はそんなことを考えるのか。
映画を見るということは個人的な営みだろうか。だが、その場所が映画であれば、よほどのことが無い限り他人に囲まれている。そこにはカップルもいれば、学生と思しきグループ*3もいれば、私のように一人で来たおじさんもいる。その日はおそらく成人ばかりだったが、上映作品によっては子どもでさえいる空間だ。
当日、隣の席に座った男性は落ち着きのない人だった。シーンにあわせて、キャラクターの動きにあわせて溜息や小さな笑い、内容が聞き取れない程度の呟きを頻繁に漏らしていた。
映画館でマナーの悪い客というのはしばしば見かける。そのような迷惑な客の一人が不幸にも隣の席に座った......それだけだったろうか。
彼は、たびたび頭を抱え、腕組みをし、目を瞑り天井を見上げながら唸っていた......ように思う。どこか冷めた目で視聴していた私と比べ、彼はむしろ真剣に作品と向き合っていた。もしかしたら、あまりに向き合いすぎていたのではないか。
その姿を、一度だけ横目でさり気なく確認してみた。5年前の7月18日。京都アニメーション第1スタジオに火をつけた男の姿がそこにあった気がした。
それはきっと、ただの幻だったろう。
『きみの色』を京アニ事件と結びつける発想は、さほど突飛なものではないように思う。
冒頭、主役の一人である「トツ子」は学園内の教会で「変えることのできないものを受け入れる力を」と祈っている。だが、彼女はどうしてそのような《祈り》を毎朝捧げるのか。その理由は判然としない。むしろ、それは現実を生きる私たちに向けられたものと考える方が自然に思える。
例えば以下の記事は作品と事件を結び付けて論じることに極めて抑制的だが、《祈り》の元となったニーバーの言葉を「京アニ事件を通じた彼女自身に対する、残された人々に対する救済のメッセージ」と解釈する。
一方で、しばしば「悪意」や「負の部分」といったものが描かれないと指摘されるように*4、本作が現実に起きた事件とは全く縁のない作品であることも事実である。
この映画から現実に潜む「負の部分」や「悪意」が削ぎ落されているのだとしたら、当然多くの人が犠牲になった痛ましい事件との関係を客観的に見いだすことは難しい。
実際、本作はとても美しい作品だ。主役の3人をはじめとして、暴力的であるような悪印象を与えるキャラクターは登場しない。また、多彩な「色」と「音」で彩られていることも、視聴者に負の感情を抱かせない要因だろう。
愛が描かれていると解釈したい人はそう解釈してもいいし、友情だったと解釈しても構わないのだが、この映画にとって重要なのは、言葉の意味に回収されない自由な状態であること自体が描かれていることだ。山田監督は常にその流動性を肯定する。日常の他愛もないことがどうしようもなく楽しいことを描いた『けいおん!』の時からそれは一貫している。
色がキレイ、音が楽しいということ。それは深遠な人間存在を描いたり、社会の矛盾を暴く大きな意味を持つなどの物語に対して、決して劣位に置かれない。むしろ、そのような感性の最小単位を忘れてしまわないために、この作品が存在することは、物語以上に「大きな意味」が現代人にとってあるとも言える。そんな重大なことを軽やかに描ける稀有な才能は山田尚子なのである。
「言葉の意味に回収されない自由な状態」「感性の最小単位」としての映像。それは、(例えば『けいおん!』シリーズのような)ただそこにある軽やかな日常を描いてきた山田尚子という作家の真骨頂とも言える。こうした作品で描かれたもの、そのものを直視するならば、本作を通じてその対極にあるような現実を語ることがあまりに暴力的で、飛躍していることは確かだ。
だが、それでもなお、私たちが本作と対極的にあるような悲惨な現実を想起することは避けられない。それは、本作が現実を暗に描いているからではない。そうではなく、現実を全く描いていないからこそ、私たちは否応なくそれを思い浮かべるのである。
先ほど引用した記事も示唆するとおり、本作を視聴した私たちには多様な解釈の可能性が残されている。
キャラクターの抱えた問題、人間関係、そして感情。それが作中で明示的には語られることはあまりない。「きみ」は共に暮らす祖母以外の家族関係が不明であり、「ルイ」は母親の跡を継いで医者になる将来が定まっているようだが父親は登場しない。3人がこれまでの人生をどのように過ごし、家族や周囲の人間とどのように関わってきたのか。そうしたものはほとんど描かれない。
本作は「言葉」で語られる設定や背景が極めて希薄であり、その世界やキャラクターの感情を「色」や「音」を中心に表現する*5。だが、「色」や「音」は、キャラクターの抱える問題、その背景にある歴史や人間関係、感情を伝えない。よって、本作に対峙した私たちが何かを語ろうとするならば、その解釈にほとんど無限の可能性が開かれていることになるだろう。
トツ子は人を「色」で見る。作中でもたびたび人が色で表現される。特に主役の3人には、きみが青、ルイが緑、そしてトツ子が赤と三原色があてがわれ、全員が揃うことで真っ白な光となる。この設定は、制作側が明確に意識し拘った点である。
よく知られているように、哲学者のジョン・ロックは生まれたばかりの人間の心を白紙(タブラ・ラサ)に喩えた。「白」は純粋さの象徴であり、3人が揃って奏でる音楽はそんな純粋さから生み出された祝福の音にも思える。
だが、ロックは人間の認識が経験に依拠すると考え、心を白紙に喩えたのだった。「白」は純粋さの象徴であると同時に、あらゆるものがそこに描かれるキャンバスである。「光」もまた自らは姿を現さず、あらゆるものを照らすことで陰影を際立たせ、そこにある「何か」を映し出す。聖書では、神の「光あれ」という言葉から天地創造が始まったとされる。それは、光がそれ自体無内容であるにもかかわらずあらゆるものを内包する、世界の純粋形式だと考えられているからに他ならない。
光そのものを直接見ることはできない。私たちが見るのは光によって照らされた何ものかであり、その影を通して間接的にその姿を捉えるにすぎない。『きみの色』に「悪意」や「負の部分」が描かれていないと言われるのは、本作が光を、純粋さそのものを描くことを試み、それが高いレベルで成功しているからだ。
トツ子の《祈り》もまた、こうした光のようなものであると考えるべきではないか。つまり、それ自体に内容はない。《祈り》は、彼女自身の問題ではない何ものかに向けられている。そのように考えれば、彼女が毎朝《祈り》を捧げる理由が作品内では判然としないのも当然である。
彼女の《祈り》は、奏でる音楽と共に真っ白な光のように輝き、世界を照らす。それが届く先には、私たちの生きる現実の世界が、そこに潜む「悪意」や「負の部分」が存在する。それは、本作が現実を暗に描いているということではない。暗にさえ全く描いてないからこそ、現実の「悪意」や「負の部分」の輪郭が浮かび上がり、私たちはそれらを想起するのだ。
『きみの色』を直接語ることは難しい。この美しい「虚構(フィクション)」を問うためには、それとは全く異なる「悪意」や「負の部分」に満ちた「現実(リアル))を語らねばならない。
《祈り》が私たちに向けられたものだとして、そこに込められたものは何であろうか。
彼女は、冒頭に引用した「平静の祈り」を全て祈ろうとはしなかった。彼女が現実を穏やかに受け入れることを求めた一方、現実を変える勇気を求めなかったのは何故か。本稿の目的は、そんな彼女の《祈り》を問うことにある。
そのためには現実という大きな迂回路を経なければならない。
(※)本稿はいくつかの痛ましい事件に関する言及を含みます。事件に関する内容は全て一般的に周知されていることであり、やや細かい点は発表されている書籍や論文に基づきます。また、特定の個人を貶めるような意図も全くございません。とはいえ、一部の方にとって不快なものとなっている可能性は排除しきれないことをご了承いただけますと幸いです。
*1:ニーバーの祈りは膨大なバリエーションが伝えられており、ニーバー自身にもそのオリジナルがどのようなものかはっきりしなかったようである。晩年、彼の妻がニーバーと共に各所からの問い合わせに応えるなかで訂正作業を進め、引用した文言を最終的なオリジナルと定めたという(高橋(1994), 262-265)。
*2:以下のフロアガイドも参照されたい。劇場案内 | ミッドランドスクエア シネマ
*4:ただし、ここで参照するインタビューで山田尚子監督自身は「負の部分」や「悪意」という言葉を使っていない。
*5:小説版だと多少設定が語られているようだが、今回はそこには触れない。言うまでもないが、映画のように「色」や「音」で表現し難い小説は、「言葉」で説明せざるを得ない。
なんか流行ってるのでやってみます。
とはいえ、TOP10に選べるほどのアニメを10本も見ていないので、ルールを以下のように定めます。
①2023年に放映されたアニメからまず10本選ぶ
②①が10本に満たない場合、以前に放映されたが2023年に初めて見たアニメも含めて10本選ぶ
③②でも10本に満たない場合、ただ2023年に見たアニメも含めて10本選ぶ
以上に基づいて選んだアニメをランキング形式でまとめます。
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