読書メモとか、なんか書きます。

読書メモとかを書きたいと思ってます。読みたいけど持ってないもの、乞食しておきます。https://www.amazon.jp/hz/wishlist/ls/38X64EIBO2EJ?ref_=wl_share

ケア倫理の話

この文章は、昨年の12月から1月ほどケア倫理関係の本をいくつか読んでいたので、そのメモを基に考えたことを漠然とまとめたものです。文章のほとんどは2月頃に書いたものなのですが、多忙期に入り放置していた下書きを仕上げました。メモの時期、大まかな文章を書いた時期、まとめた時期がそれぞれずれ込んでいるせいで、読書メモとも言い難い脱線した変な内容になっていますがご了承ください。


ケア倫理の本をいくつか読んだので、考えたことを簡単にまとめてみたい。

正義VSケア

ケア倫理を考える意義は、やはり正義(自律した主体に普遍的にあてはまる原理)に対する異議申し立てにあるように思える。その申し立ては多岐に解釈できるが、相応しいものとそうではないものを裁断する、という正義の性格に対する違和感に注目したい。先日の、ラブコメヌーヴェルヴァーグ論への応答に付け加えた引用の一部を再び引いておこう。

(略)分配を正義によって正当化すれば、ケアされない人間や乏しいケアしかうけられない人間は、そうした処遇に値しており、豊かなケアをうける権利、ないしはそもそもケアをうける権利や権限がない者とみなされざるをえない…(略)…ケアリングの倫理からすれば、すべてのニーズを充足するほどにケアが行きわたらないのは悲しむか惜しむべきことであって、正当化すべきことではない。ノディングスが正義の倫理と原理原則的思考を結びつけて忌諱するのは、そこに裁断する姿勢が感じられるからにほかなるまい。*1


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この指摘は重要に思える。品川は「正義vsケア」論争に言及しながら、その関係について、ケアを正義に包摂するでも両者を統合するでもなく、それぞれを「編み合わせる」多角的視点を保ち、零れ落ちかねない人間の在り方を掬い取る観点を評価する。


しかし、この「編み合わせ」という比喩に寄り添って考えれば、正義からもケアからも零れ落ちるものはないか。現実の人間は必ずしも正義が想定するような、平等な自律した主体とは言い切れない。だからこそ、正義による裁断はしばしば人を傷つけ、苦しめる。では、ケアが人を傷つけ、苦しめることはないだろうか。当然あるだろう。


とはいえ、ケアが人を傷つけることもある、という指摘はケア倫理に対する決定的な反駁ではない。おそらく、ケア倫理の立場からは以下のように応えることが出来る。確かに、ケアする行為そのものが時に人を(相手を、自己を)傷つけ、苦しめることがある。しかし、誰かの傷や苦しみに寄り添うことこそがケアの根本的な関心である。むしろ、いくら相手を気遣っているつもりでも実際には誰かを傷つけることがあるからこそ、私たちは常にケアする態度を意識し、自らの言動を省みながら相手と接する必要があるのだ、と。


こうした反論は正しいと思うが、ここに正義が直面するものと似た困難がないだろうか。


正義の理想と欺瞞

正義が直面する困難とは何か。フェミニズムの立場からケア倫理を評価する*2岡野は、「自律した主体」を前提とするリベラリズムや正義の理論によって、ケア倫理が前提とする「依存した主体」は公的な領域からはもちろん、私的な領域からも排除されてきたことを指摘している。


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自分なりに岡野の議論を咀嚼した大雑把な見通しは以下のようになる。



正義は理想的な「自律した主体」を前提とする。とはいえ、それはあくまで理想的な想定に過ぎず、現実の人間は少なからず「依存した主体」でもある。だからこそ、公的領域と私的領域が区別される。公的領域においては「自律した主体」であることが求められるが、「依存した主体」としての人間は私的領域で保護される。公的領域(例えば政治)では、人はみな平等であり、権利は公平に与えられる。しかし、私的領域では人は何かに依存しているため、必ずしも平等ではないし、権利が公平に与えられないこともある。この区別は正義という理想自体を否定するものではなく、むしろ正義を実現するために求められる。


こうした公的領域と私的領域の区別に対して、以下のように批判できる。こうした区別は「依存した主体」を私的領域に閉じ込め、公的領域から排除することで、実際にはある種の人々(男性、白人、健常者等)を優遇し、「依存した主体」をケアする役目を相対的に立場の弱い人々(女性、外国人労働者等)に押し付けてきた。それだけではなく、こうした役割の固定化による営みを「それぞれが好きにやっている(つまり自由に選択した)こと」と意味付け、「そうせざるを得なかった」人々の問題を排除してきた。つまり、「依存した主体」は私的領域で単に保護されているのではなく、公的領域における不均等な力関係によって抑圧されている。よって、このような人々の存在は私的領域においても実は居場所がない。公私二元論の区別は、こうした力学を覆い隠し、弱い立場の人間に負担を強いる関係を固定化してきた。



さて、問題の根本はどこにあるか。それは正義の掲げる「自律した主体」が、あるいはそうした主体による「平等で対等な個人」という関係が、現実社会で実現されていないということに尽きる。少なくとも正義という理想を掲げる立場からはそう考えることが出来る。


確かに私的領域において抑圧された人々がいることは問題だ。しかし、それは単に「正義の不徹底」によるものでしかない。もし公的領域における理想が実現していれば、そこに不均衡な力関係がなければ、私的領域における抑圧もないはずだ。現実は確かに正義が実現されていないが、むしろ実現されていないからこそ、私たちは正義の理想を捨てることなく現実を改善していかなければならない。


正義からのこうした応答は欺瞞にすぎないかもしれない。ケア倫理の立場は(ケアを必要とする人がいて、ケアに取り組む人がいる、という)いつの時代もどんな場所でも否定できない現実に基づいて正義の欺瞞を指摘するだろう。しかし、ひとたびケア倫理の中身を検討していくならば、「理想的ではない現実に応答するために理想を掲げる」という構造が、自身にも当てはまることに気づくのではないか。


ケアの理想と困難

ケアの実践は現実的には必ずしも素晴らしいものではない。そこでは傷つくことも傷つけることもある*3。ケアには確かに正義のように問題を裁断する姿勢はない。目の前の相手に対して、上から目線の抑圧的な態度をとることも無い(あるいはその蓋然性は低い)だろう。しかし、いずれにしても私たちは理想と現実の狭間で悩み、苦しむ。ケアする側がどんな人であろうと、その人もまたどこかでケアされることが無いのであれば、実践の過酷な現実に打ちひしがれ、追い込まれてしまう*4


こうした現実を目の前にしてなおケアの実践を営むためには、そこにある種の理想が要請されるのではないか。例えば、政治学者のジョアン・トロントは誰しもがケアの主体となり同時にケアの対象となる、といったケアの在り方を掲げている。また、哲学者でもあるエヴァ・フェダー・キテイの「みな誰かお母さんの子どもである 」という言葉も、私たちが生まれたばかりの、ある種の原初状態を社会的に敷衍し、理想化しようとするものに思える。


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これらの理想はあまりに現実と乖離しているかもしれないが、乖離しているからこそ、その理想を捨ててはいけない。私たちはそれを目指すべきだし、それが現実とならない社会を変えていくべきだ。それは正しい主張だと思うが、「自律した個人同士による対等な関係」という正義の理想とどこか通じている。むしろ、「誰しもがケアの主体となり、同時にケアの対象となる」という人々の関係が本当の意味で実現されたとき、初めて「自律した個人同士による対等な関係」が成立するのではないか*5


このように考えたとき、正義とケアはアプローチの方向が異なるだけで(その違いが決定的な差であるとしても)、同じ理想を共有しているようにも思える。実際、現代の正義論にも大きな影響を与えたカントが提示する「全ての人を単なる手段としてだけではなく同時に目的としても扱え」という一つの原則は、「全ての人をケアの主体としてだけではなく、ケアの対象としても扱え」と言い換えることが出来るのではないか。



理想と現実のギャップこそが人を苦しめる。そして、この問題は正義からもケアからも零れ落ちてしまうのではないか。少なくとも「誰しもがケアの主体となり、同時にケアの対象となる」という理想を真剣に受け止めるならば、*6、現実に数多く存在する十分なケアを受けられない人、一方的にケアを与える側に立たされている人々を、より一層苦しめるだろう。


完全義務と不完全義務

品川に従えば、ケア倫理が正義を忌諱するのはそこに裁断する姿勢が感じられるからである。しかし、たとえ裁断する姿勢がなかったとしても、理想と遠い現実がクソであることに変わりはない。しかも、現実がクソであればあるほど私たちは強く理想を欲し、両者の乖離はますます決定的なものになる。真の問題はそこではないか。


理想があるからこそ現実とのギャップに苦しむ。「~するべし」という義務に従う意志を持つという(ある種の理想的な)人間像を前提としたのがカントの倫理学だが、それは(カント本来の意図はともかく)人間の崇高さや高潔さを謳うものではなく、むしろ人間の病理を描くものとしてアクチュアルである。ケアの倫理も、厳密な(カント的な)意味での「~するべし」と結びついたとき、それが実現されない事実が私たちを苦しめる。そう考えると、ケアは道徳的な価値だとしても、道徳的な義務とまで言えるか疑問だ。*7。カントは、道徳的な価値ではあるが、果たさないことが許容される(つまり厳密な意味では義務と言い難い)義務を不完全義務として位置づける。品川は、やや否定的なニュアンスで「正義の観点からはケアが不完全義務にしかならない」と何度か評しているが、むしろ私はケアを不完全義務として理解し評価するべきであるように思う。


完全義務と不完全義務の区別を簡単に整理しておこう。完全義務は従わなければならない義務である。従うのは当たり前で、従わないことは許されない。一方、不完全義務はそうではない。不完全義務を果たすことは良いことだが、果たすことが出来なくともそれ自体は悪ではない*8。義務としての功罪をまとめると以下のようになる。



 完全義務  果たす⇒当たり前(±0) 果たさない⇒ダメ(-)
 不完全義務 果たす⇒すごい(+) 果たさない⇒仕方ない(±0)



なぜ、このような区別があるのか。それは、私たちが完全に義務に従う存在ではないからだ。そもそも「~するべし」という義務概念は、私たちがしばしば「~しない(出来ない)」からこそ要求される。生きているだけで完全に義務に従う聖人君子に「~するべし」という義務は全く意味がないが、私たちはそうではない。生きる喜びがどこかになければ、誰にも(何にも)愛されていなければ、安らげる場所がなければ……おそらく、当たり前とされる義務を果たすこともできない*9

不完全義務としての愛≒ケアの倫理

やや乱暴に言ってしまえば、正義は完全義務とゆるやかに対応する。私たちはどんな状況であっても嘘をついてはならないし、人を殺してはならないし、物を盗んではならない*10。それは、その人が貧しかろうが、差別されていようが、誰にも愛されていなかろうが、守るべき義務だ。しかし、もう少し誰かに愛されていれば、その人が正義に反することは無かったかもしれない*11


カントが論じる不完全義務のうちに「愛の義務」がある。それはひらたく言うと、「誰かの目的を(それが非道徳的でないかぎりで)自らの目的とせよ」という義務である。私の理解では、他者に寄り添い、そのニーズに声を傾けるケアの倫理は、不完全義務としての愛の義務に他ならない。重要なのは、これは「行為の原理(と意欲)の普遍化」要求(定言命法)から直接導き出される完全義務*12ではなく、現実の人間が弱く完全には義務に従うことの出来ない、つまり理想的な存在ではないからこそ求められる義務であることだ。そのような意味で、論理的に必然な完全義務よりも、むしろ不完全義務こそが理想と現実の狭間で苦しむ私たちにとって、より重要な意味を持つ。


ケアを「諦める」こと

愛の義務の源泉は道徳的な普遍化要求ではなく、人間の弱さにある。だからこそ、それは功績であって果たさないことも許容される。つまり、「できなくても仕方ない」という諦めがある。ケアもおそらく同様である。無際限に誰かを愛することがおよそ不可能であるように、無際限なケアも不可能だ。対象の範囲を正義のような基準で線引きすることもできない。だからケアは普遍化できない。誰かのニーズに応えることに価値がある、としか言えない。そこに留まることにこそ重要に思える。


愛もケアも、きっとどこかで「諦める」ことになる。それは、具体的な他者に応答するというケアの本質からすると自己矛盾的だ。目の前の相手を見捨てる可能性を常に抱えているのだから。ここにケアの根本的な不可能性がある。だが、私たちはこの不可能性に踏み留まらなければならないのではないか。ケアは不完全にしか果たせず、私たちはその関係の中で生きていかなければならないのだから。


それは等身大の自分自身を、そして人間そのものを肯定することであるように思える。

*1:品川哲彦『正義と境を接するもの 責任という原理とケアの倫理』ナカニシヤ出版、2007、189頁

*2:これはケア倫理の第二世代と呼ばれる論者たちにおおよそ共通する立場のようである。後述するトロントやキテイ は、共にフェミニズムの立場からケア倫理を評価しており、岡野は両者の著書を翻訳している。ちなみに、品川が評価する正義とケアの「編み合わせ」を提唱したヴァージニア・ヘルドも、フェミニズムの立場をとるケア倫理の第二世代とされる。

*3:ケア倫理の理論自体がこうした現実を看過しているわけではないことには留意が必要である。岡野の著書でも、時に相手を傷つけ自らも傷つく経験を経ながら試行錯誤していく実践としてケアを捉えることが幾度となく主張されている。

*4:それは介護や育児の現場を想像するだけで十分理解できる。

*5:そもそも個人的には、ケア倫理の考えを政治に敷衍させようとする岡野らの議論は「ケアの正義化」を目指すもののように思えてならない。キティの著書名がそのことを雄弁に物語っていないか。

*6:もちろん、こうしたギャップに苦しんでいる人々にこそケアが必要なのだが。

*7:カントの立場からすると、義務によって人が苦しむか苦しまないかなんてどうでもいいでしょ、と思う人も割といそうである。そう言ってもいいだろうが、後述の不完全義務の概念からも分かるように、人間の道徳的ではない側面こそ考えねばならないのは、カントの立場からしても同じはずなのだ。カントは道徳的な義務が幸福と一致しないということを指摘したが、私たちが幸福に生きるようとする意志を持つことを否定したわけではない。むしろ、現実的な存在としての私たちにとって幸福は一種の義務ですらある。

*8:念のため細かいことに言及しておくと、不完全義務の不履行はそれ自体悪ではないが、「積極的な不履行」は悪である。それは、不完全義務が功績であることそのものを否定することで、完全義務の履行に抵触すると考えられるからだ。

*9:「衣食足りて礼節を知る」という言葉を思い出すといい。古事記にも書いている。

*10:公正な分配をどのようにするべきか、ということを考え出すともう少し込み入った議論が必要になるので、ここでは極めて単純なイメージしか考えていない。ここから込み入った議論をしていけば本が書けるな?(多分既にある)

*11:もちろん変わらないかもしれない。ケア倫理の文脈なので、この文章は全体的に「愛があれば人は罪を犯さない」と受け止められかねないような内容にはなっているが、愛についてあまりそのように考えてはいない。それは結果に過ぎない。愛された結果、人が(社会的に)正しく生きることもあれば、間違って生きることもあるだろう。愛とは、そのような結果を度外視した営みなので、本質的には正義だとかケアだとかいう話とは関係ない……というか、ケアはおそらく愛という豊穣な人間の営みの表層に芽生えた見栄えのいいお利口さんでしかないのだと思う。「不完全義務としての愛」は、そのような意味で愛の可能性の一欠けらにすぎない。

*12:これは「嘘の禁止」を思い浮かべると分かりやすい。嘘は端的に矛盾しているため普遍化できない。簡単に言えば「みんなが嘘をつくこと」の要求は論理的に矛盾する。嘘をつくためには相手がその言葉を本当であると思うという前提が必要だからだ。