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児玉聡(2010)『功利と直観 英米倫理思想史入門』勁草書房 4/10

 さて、以下の本の続きです。
 

 児玉聡(2010)『功利と直観 英米倫理思想史入門』勁草書房

 本記事は、「第四章 シジウィックとムーア」をまとめます。やっぱりまとめは一日1章になるかなぁ。



第四章 シジウィックとムーア

 ここから、19世紀末から20世紀にかけての功利主義直観主義の対立が描かれる。特に本章では、シジウィックとムーアという2人の思想を通じて、対立の論点や、それに対する功利主義理論のポイントがより精緻に描かれる。両者の考えは、功利主義の「根本的な問題」に対して、一つの完成された応答がなされているという印象を受けるものだ。

1.調停者としてのシジウィック

 節の題目にもあるように、シジウィックの考えは功利主義直観主義を調停するもののようである。それは、「功利主義の基礎付けには功利原理の正しさを示す直観が必要(100)」であり、一方で「直観主義は十分な行動指針を示せないがゆえに功利主義の手助けが必要(Ibid.)」といったものである。
 要するに、功利原理を採用しなければならない理由(「根本的な問題」)を、シジウィックはある種の直観に求める。それは、彼が子ミルの功利主義に感銘をうけ検討する中で、「事実として各人は自分自身の幸福を追求するという心理的快楽説と、各人は全体の幸福を追求すべきであるという倫理的快楽説(92)」の衝突に悩み、「全体の善のために自分の幸福を犠牲にするのが正しいことがなんとかして「わかる(see)」必要があると考えた(Ibid.)」からだ。そのために、功利主義にもある種の「根本的な倫理的直観(Ibid.)」が必要なのであり、バトラーの理論を踏まえてカントの定言命法を受け入れることで、功利原理を「根本的な道徳的直観に基づく(94)」ものとして受け入れる。
 こうしたシジウィックの考えは、2つの重要な帰結をもたらす。1つは「功利主義と利己主義を明確に分けたこと(95)」であり、もう1つは「人間本性に関する記述理論である心理的快楽説と、規範理論である利己的快楽説とを明確に分けたこと(96)」である*1。こうした区別は、これ以降の規範倫理の議論に引き継がれていく。
 また、シジウィックは直観主義についても、直観の種類を分類するなど大きな貢献をしているようである。そこでは直観主義が3つに区別され、「個々の行為の正・不正を直観的に把握する」という「知覚的直観主義(perceptional intuitionism)」、「常識道徳における一般的規則を公理として直観的に把握する」という「教義的功利主義(dogmatic intuitionism)」、「常識道徳の背後にある哲学的基礎を見つけようとする」という「哲学的直観主義(philosophical intuitionism)」である(97、太字は原著では傍点)*2。シジウィックは「哲学的直観によって知られる「合理的善意の原理」(理性的存在者としての個人は、一部の善だけではなく、全体の善を目指すべきである)が必要だと考えた(98)」のである。

2.破壊者としてのムーア

 ムーアは現代倫理学への「「分析的転回(analytic turn)」を行った人物(102)」と評価されるという。彼は、「道徳哲学の根本的な問いやそこに含まれる諸概念を分析することが最も重要な課題(103)」と考え、この考えが現代倫理学に決定的影響を与えたとされる。それは、メタ倫理学というアプローチへと繋がっていくようである。
 ムーアの考えで重要なのは、「善さ」と「正しさ」の問題を区別したところにあるようだ。善についての問いとは「〔何か別のものの手段として価値があるのではなく〕それ自体に価値があるために存在すべき事物は何か(106)」ということであり、正についての問いとは「どのような行為をなすべきか(Ibid.)」ということであるとされる*3
 ムーアによれば、善さは他の何か(快など)によって基礎付けられるものではない。なぜなら、そのような基礎付けは「「だが、それは本当に善いと言えるのか」とさらに問うことができるから(107)」だ。よって、善さは定義することが出来ないが、「善さという性質を備えた事物を見れば、この性質を認識することができる(108)」と考えられている。これはムーアの直観主義的な部分である。
 一方、正しさについてムーアは「正しい行為とは、その状況で最大の善さを産みだす行為(Ibid.)」と定義するという。これは行為の帰結を功利主義的に考えることであり、善さとは異なり証明が可能であると考えられる。よって、この点においてムーアは直観主義を間違ったものとして退ける。
 ムーアは「善さの証明は不可能だと述べるだけでその認識方法についてはとくに何も語っていない(110)」が、シジウィックの考えと基本的には重なり合っているように思える。道徳的に正しい行為は功利原理によって説明されるわけだが、どうして功利原理を採用するべきか、つまりなぜそれが善いと言えるのか、という善さについての「根本的な問題」は証明し得ないと考えている。明示的に直観主義を採用しているわけではないにしても、ここにシジウィックの言う哲学的直観に基づく功利原理の採用を読み取るのは難しくないように思う*4
 倫理思想史的に言えば、ムーアは善を快さなどによって説明することを「自然主義的誤謬(naturalistic fallacy)」として退けたことにより、「功利主義陣営に大打撃を与え(111)」、「直観主義陣営を大きく勢いづかせた(Ibid.)」ようだ。この「自然主義的誤謬」の考え自体は、今日では支持されていないようだが、それまでに事象で扱われる直観主義者たちの理論が潮流となり、「シジウィックが苦心して作り上げた功利主義直観主義の理論的な共存関係を破壊し、両者の抗争を再開させる契機となった(112)」とされる。

 前章から見てきたような「根本的な問題」について、シジウィックとムーアは1つの答えにたどり着いているように思える。それは、道徳的な義務について功利原理を採用するのはどうしてか(なぜ私たちは功利原理に従うべきなのか)という問いに対して、それはある種の直観主義的な意味で誰にとっても明らかと考えられるからだ。オースティン等はそれを神の意志と考えたわけだが、本質的には同じような考えだと言っていいように思える。これは功利主義の完成された基礎づけでもあるだろうし、その限界を示すものでもあるように思う。

*1:少し分かりにくいが、心理的快楽説はホッブス主義(少なくとも直観主義者たちが批判するホッブス主義)の前提となる、人間は本性的に利己的であり道徳的に思える行為もこうした利己性に基づく行動であるといった考え方である。利己的快楽説とは倫理的な利己主義であり、シジウィックおける根本的な倫理的直観の点で功利主義と最も先鋭的に対立する。つまり、この説では(おそらくホッブス的な合理主義者により)「「自己の利益と全体の幸福が衝突する際には自己利益を優先すべきだ」という格律が普遍的な法となることを意志する(93)」ことが主張されるだろう。

*2:おそらく、全ての規範倫理学が(自覚的にせよ無自覚的にせよ)こうした「哲学的直観」を根本的な前提としているのではないかと思う。それは功利主義だけではなく、カントの定言命法もそうであろうし、コミュニタアリニズムもそうであろう。もっと言えば、根本的に守らねばならない倫理や道徳など存在しないと考えるような場合も同じに思える。

*3:簡単に言ってしまえば、善についての問いは道徳や倫理を基礎づける根本的な原理の問い、正についての問いは(こうした原理に基づいて)具体的に「正しい」行為を求める問い、とまとめていいように思える。

*4:「ムーアは善と正という、より明快な区別を導入した上で、やはり功利主義に直観的な基礎づけを与えたと理解することが出来る。(111)」