読書メモとか、なんか書きます。

読書メモとかを書きたいと思ってます。読みたいけど持ってないもの、乞食しておきます。https://www.amazon.jp/hz/wishlist/ls/38X64EIBO2EJ?ref_=wl_share

児玉聡(2010)『功利と直観 英米倫理思想史入門』勁草書房 3/10

 今日も以下の本の続きです。
 

 児玉聡(2010)『功利と直観 英米倫理思想史入門』勁草書房

 1日2章ずつくらいですかね。本記事は、「第三章 第二世代の功利主義」をまとめます。



第三章 第二世代の功利主義

 本章では、2章で扱ったベンタムたちの次世代、オースティンとミル父子が直観主義と対峙しながら提示した功利主義理論が扱われている。

1.スコットランド学派とケンブリッジモラリスト直観主義

 まずは、この世代の功利主義者が対峙する直観主義陣営が簡単に紹介されている。一つは1章に出てきたリードの流れを組むスコットランド学派、もう一つはカント等ドイツ哲学の影響も受けているというケンブリッジモラリストである。後者に属するコールリッジは個人的にも興味深い。彼は良心と(おそらくカント的な意味での)理性の概念を結び付け、「我々は直観能力と自由意志の能力を持つがゆえに道徳判断ができる(65)」と考えたという*1
 いずれにしても、それぞれの立場はともにバトラーやリードに従って良心を「内なる神の声(66)」と考えたようだ。、これによって人間は神の摂理として道徳を知るとった考えのようである。
 功利主義の第二世代は、こうした直観主義者と対峙していた。

2.ジョン・オースティン

 まずはオースティンであるが、その具体的な中身の前に、ここでベンタム的な考えの課題が示されている。これは非常に重要な論点に思えるのできっちりと抑えておきたい。
 1つは、動機づけに関する問題である。ベンタムの考えに従えば、「ホッブス主義と同様、功利主義道徳に従う内在的な動機はない(69)」ことになるため、功利原理そのものではないサンクション論によって補われていた。これは「「実定法や実定道徳と功利主義原理の命令が異なる場合に、功利原理に従う理由はあるか」という問題(70)」と本書では表現されている。もう1つは、利己的な人間像に関する問題である。ホッブス主義ほどではないにしても、ベンタムも「基本的には人間を他人の利益よりも自分の利益を優先する存在だと考えていた(Ibid.)」という。ここから、「「自分の利益と功利原理の命令が異なる場合に、功利原理に従う理由はあるか」という問題(Ibid.)」が生じるとされる。
 これは、一言で言ってしまうと「どうして私たちは功利原理に従わないといけないのか」という問題である。オースティンに限らず、功利主義者はこの問いに答える必要があるだろうし、その答えに満足いかない人たちは功利主義を採用しないだろう。個人的には最も根本的な問題であるように思えるし、出発点ともいえるベンタムからして既にこの問題に直面しているということは注目に値するように思える。
 さて、オースティンはどのように考えるのか。彼はベンタムの弟子であるが、理論的にはペイリーと同じように功利主義の中心に神をおいて考えるという。つまり、「被造物の最大幸福を命じる功利原理は神の意志を示すものである(Ibid.)」と考えられた。つまり、「神の存在を仮定することによって、功利主義をもっともらしく説明しようとした(72)」のである*2
 神に依存しているオースティンの理論が「最も根本的な問題」の解決に成功しているかは疑わしい。まずもって、功利原理が神の意志を示すものであるということがなぜ言えるか、少なくともここでは説明がない。また、たとえそれを認めるとしても、神を信じない者は功利原理を採用しないだろう。

3.ジェームズ・ミル

 ミル父子はオースティンと違い、ベンタムの考えが直面する問題を神に依存せず解決しようとしたとされる。まずは、父親のジェームズ・ミルが扱われている。
 父ミルに関して重要なことは、ハートリによるロック流の「観念連合説を再発見した(74)」ことである。「観念連合(association of iedas)」とは、「本来無関係の観念同士が分かちがたく結びつき、一方が想起されると他方も想起されるという現象(Ibid.)」である。ハートリの考えは、道徳的な快苦とはこうした複合的なもので、道徳的な徳に対する賞賛や、実際に有徳な行為をした際の満足感や美的な快さといったものが合わさることで、「元の快苦とは質的に異なるものになる(Ibid.)」といったものとされる。
 こうした観念連合説をとることは、功利主義にとって都合が良いとされる。道徳感情や直観をこうした複合的な観念と考えることで、「単純な感覚の快苦から段階的に発展してきた(75)」という説明を加えることが出来るからだ。また、それによって功利原理に従う動機を、教育や習慣の力に求めることが出来るようになる。
 本書では、父ミルの考えについて「「実定法や実定道徳と功利主義原理の命令が異なる場合に、功利原理に従う理由はあるか」という問題に対してこのように答えることで、父ミルは功利主義を補強した(76)」とまとめられているが、どうだろうか。
 父ミルの考えからは、こうした問題に対して「功利原理から導きだされる道徳に従うような複合観念を(教育や習慣によって)形成するべきだ」と答えることはできるだろうが、そもそも功利原理に従うべき理由が示されているようには思えない。また、こうした複合観念が自然と形成されるとするなら、私たちは既に功利主義に従って生きているのであり、こうした問題はそもそも起きないのではないか。父ミルの理論もまた「最も根本的な問題」には手が届いていないように思える。

4.ジョン・スチュアート・ミル

 子ミルも父ミルと同様、ベンタムの理論を補強するが、大きな論点として「ベンタムの人間理解がホッブス主義同様、利己主義的であること(77)」があるという。
 ベンタムは良心や義務感、道徳感情などを「共感と同じもの(78)」と考えていたようであるが、子ミルはそれらを共感や個人の善意と区別し、存在を認める。つまり、徳はそれ自体内在的な価値を持つという意見は「幸福を究極目標と考える功利主義からしても正しい(79)」とされているのだ。直観主義と異なるのは道徳判断や道徳感情といったものは「究極の事実ではなくさらに単純な観念や感情へと還元可能(80)」だと考えることだ。簡単に言えば、これらの判断や感情は神秘的なものではなく、「心理的発達の過程で得られた後天的なもの(81)」として説明可能と考えるのだろう。
 ミル父子の直観主義批判を簡単にまとめるなら、直観主義は良心や道徳感情を神秘的なものにすることで、「理論の形式を取ってはいるものの内実を持っておらず、「独断主義」を正当化する口実になっている(83)」というものだと言える。


 以上、3章までをまとめてきた。ここまでを本書では第一部としており、功利主義直観主義の基本的な対立図式をその成立を負う形で示し、古典的な功利主義思想の概要がまとめられていると言える。
 特に、3章で出てきた「根本的な問題」は非常に重要に思う。もちろん正確に検討することは本書を読むだけではできないが、少なくともここまではこの問題に対して明確な回答は出ていないように思える。次章からは20世紀前半の議論の発展が扱われ、シジウィックからロールズに至るまでの論争が描かれる。特に、シジウィックとムーアは、一つの思想史的な結節点に思え、重要ではないかと思う。先取りして言えば、「根本的な問題」に対する功利主義からの回答は、この両者によってほぼ完全な形で提出されているのではないかという気がしている。

*1:カントの道徳法則の概念は直観主義的なものとして解釈することも可能かもしれないし、多分すでに誰かやってる。

*2:オースティンはペイリーと同じように、行為の正しさを考える際に「一般規則の重要性を強調した(71)」という。神学的な功利主義者が規則功利主義に親和的であるというのは興味深い。また、神の命令を良心や道徳感覚によって知るという直観主義には否定的であるようだ。