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水野俊誠(2016)「シジウィックによるミル 「功利主義」 の批判について」

 シジウィック第2弾です。

 水野俊誠(2016)「シジウィックによるミル 「功利主義」 の批判について」『エティカ(Ethica)』Vol.9、pp.31-64、慶應義塾大学倫理学研究会

 水野さんも応用倫理学で名前をよく聞く人です。主に医療倫理の領域で。


シジウィックによるミル 「功利主義」 の批判について

 本論文では、以下の3つの点におけるシジウィックのミル批判が検討されている。
 まずは「快楽の価値はその量と質の両方によって決まる(31)」という質的快楽主義*1。次に、「人は(目的として)快楽のみを欲する(Ibid.)」という心理的快楽主義。最後に、ミルによる功利原理の証明である。

1.シジウィックによるミル批判

質的快楽主義

 ミルは、ベンサムを批判し質的快楽主義を採用する。つまり、快楽の比較には量的な差だけではなく、質的な差を考慮する必要があると考えた。
 しかし、シジウィックは、こうしたミルの考えに対して「快楽主義の方法を整合的に用いるためには、快楽の質の差をその量の差に還元しなければならない(33)」とする。ある快楽を質的に優れたものとして判断する際に私たちが選好しているのは、「感情そのものではなく、その感情が生じる状態または関係、その感情に後続する結果など(34)」であり、感情そのものに見出させる望ましい性質は「快さという量しかない(Ibid.)」からである。
 よって、ある種の快楽が別の快楽よりも量的には劣っていても質的に優れていると考えることは、「快楽主義の中に、それと整合しない非快楽主義的な要素を持ち込むことになる(33)」とシジウィックは考える。これが質的快楽主義批判の1つ目のポイントである。
 また、ある快楽を質的に優れているという理由で選択することは「最大の幸福すなわち快楽を自らの選好の基準と見なすことと整合にしない(35)」とも考えられている。これが2つ目のポイントである。

心理的快楽主義

 ミルは、人間の意志が快と苦によって常に決定されているという心理的快楽主義を採用する。これに対して、シジウィックはバトラーの立場に影響を受けつつ批判を展開する。
 シジウィックによると、ミルは「あるものを欲することと、それが快いと見出すことは、同一の心理的事実の2つの名付け方である(36)」と考えているという。このとき「快い」という言葉は行為を刺激する感情として考えられているため、ミルに従えば「人は、快楽以外のものを欲することができない(37)」ことになる。
 一方、バトラーの考えでは「人は快楽を欲するのではな(Ibid.)」く、「個々の外的対象への欲求を満たすことによって、二次的に快楽を得る(Ibid.)」とされる。シジウィックは、「多くの感覚的、情緒的な快楽は、先行する欲求とは無関係に享受される(38)」が、バトラーの言うように「人が、自己の快楽以外のものを欲するということはやはり事実である(Ibid.)」と考える。
 例えば、空腹の欲望は快楽を得ることを目的としているようであるが、「自己の快楽以外のもの、すなわち物を食べることを対象とする欲求である(39)」とされる。また、ゲームの例においては、「勝利への欲求が強くなると、勝利の獲得は一層多くの快楽をもたらすようになる(40)」と考えられており、これは「追及されるものへの欲求の一種(Ibid.)」であって「快楽への欲求とは別のもの(Ibid.)」とされる。
 よって、シジウィクは「自己の快楽以外の何かに対する衝動・欲求が存在する(42)」と考える。これが心理的快楽主義に対する批判の1つ目のポイントである。
 さらに、シジウィックは「快楽への欲求を直接的に満たそうとすれば、それを満たすことは出来(41)」ず、「追及されるものへの欲求を満たすことによって、快楽への欲求は間接的に満たされる(Ibid.)」という事態を「快楽主義の逆説」とする。これは、先日の行安論文でも重要とされていた点である。
 本論文では、この逆説に関連して「自己の快楽以外の何かに対する欲求は、自己の快楽に対する欲求と時に両立不可能である(42)」という点が 2つ目のポイントであるとされている。

功利原理の証明

 ミルによる功利原理の証明は、以下の3つの命題からなるという(42)。

(1)各人の幸福は各人にとって望ましい
(2)社会全体の幸福は望ましい
(3)幸福だけが望ましい

 ここではシジウィックの批判対象となる(1)と(2)が扱われている。
 (1)については、以下のように考えられている。「あるものが望ましいということを示し得る唯一の証明は、人々が実際にそれを望んでいるということ(43)」であり、実際に人々は自らの幸福を望んでいるため、それは望ましいと言える。
 (2)については、以下のように考えられている。(1)より各人の幸福は当人にとって善であるため、「社会全体の幸福はすべての人の総体にとって善である(Ibid.)」といえる。これにつては、「事情が許す限りでの証明だけでなく、要求できるすべての証明も手に入れている(Ibid.)」と考えられている。
 こうしたミルの考えは、「各人は自分自身の幸福を追求するという心理的快楽主義に基づいて、他の人々の幸福を追求すべきであるという倫理的快楽主義を主張している(Ibid.)」という*2
 シジウィックの批判は主に、自分自身の幸福追求と社会全体の幸福追求の間に論理的な繋がりが存在しないことに向けられる。(1)の考えを認めるとしても、「社会全体の幸福を欲するべきである(44)」という「倫理的普遍的快楽主義」を正当化するためには「各人は社会全体の幸福を欲する(Ibid.)」という「心理的普遍的快楽主義」が成り立たなければならないが、社会全体への幸福への欲求は個人の中に存在しないため、成り立たない。
 また、シジウィックは前述したとおり、前提となる心理的快楽主義にそもそも懐疑的である。さらに、「すべての行為者は自分自身の快楽を追求するという心理的快楽主義と、倫理的快楽主義を含むあらゆる倫理理論との間に必然的な関係は無い(46)」とされる。以上2点と、前段の「心理的利己的快楽主義に基づいて、倫理的普遍的快楽主義を正当化することはできない(Ibid.)」という3点が、ミルの功利原理の証明に対するシジウィクの批判のポイントである。

2.シジウィックによる批判の評価

 シジウィックによるミル批判に対する評価としては先立って、「ミルの質的快楽主義と心理的快楽主義は、シジウィックによる批判に応えることができるが、ミルによる功利の原理の「証明」は、シジウィックによる批判に応えることができない(47)」とされている。以下、それぞれの論点に対する評価を確認する。

質的快楽主義

 質的快楽主義に対するシジウィックの批判のポイントの1つ目は、快楽主義と整合しない非快楽主義的な要素を持ち込んでいるということであった。
 しかし、ミルは「快楽の質や量と快楽の価値とを区別(48、太字部分は原著では傍点)して」おり、この価値は「快楽の質と量の両方を考慮に入れて評価すべき(Ibid.)」と考える。それぞれの快楽には(量的な差異だけではなく)質的な差異があり、それぞれの価値はその両方によって定まる。こうした考えは、「完全な形の快楽主義とまったく矛盾しない(Ibid.)」ので、シジウィックの批判は成り立たないとされている。
 2つ目のポイントは、質的快楽主義が最大幸福を選択の基準と見なす考えと整合しない、ということであった。
 ある部分で、ミルは「行為者については、量が少なく質が高い快楽を、量が多く質が低い快楽よりも選択するべきである(49)」と考える(質的快楽主義を採用する)一方で、「当事者全員の幸福については、最大量の幸福(快楽)を選択の基準と見なすべきである(Ibid.)」と考えている(最大幸福を選択の基準と見なす)ようであるという。両者を分けて考えることで「これら二つの見解は形式的的には整合するように見える(Ibid.)」と考えられているが、別の部分ではミルが「行為者の幸福に関しても、当事者全員の幸福に関しても、幸福(快楽)の量と質の両方が考慮される(Ibid.)」とも考えている(質的快楽主義を採用する)ようであるという。だとすれば、シジウィックが批判するように2つの見解は整合しないように思えるがどのように考えるべきか。
 筆者は、ミルが最大幸福を目指すという場合の快楽の量(amount)とは、「快楽の量(quantity)ではなく、快楽の価値である(50)」と解釈すべきではないかと考える。そう考えることによって、量(quantity)が少なくとも質の高い快楽を選択することと、快楽の量(amount)を最大化するという基準が整合的に解釈できるという。要するに、ミルの考える最大幸福とは、最大の価値を持つ幸福ということになるだろう。
 想定される反論として、「快楽の質の相違は、快さの程度という量の差に還元され(51)」るのであり、「快楽の量が快さの程度であるとすれば、(快楽の価値とは快さの程度に他ならないと考えられるので、)快楽の価値と快楽の量は同じものになる(Ibid.)」というものが挙げられている。
 これに対して、ミルは「快楽の価値を基数的なものではなく、序数的なものと捉えている(Ibid.)」と考えれば、「どちらが高い価値を持つかは判定できるが、一方の価値が他方の価値より何倍高いかは判定できない(52)」のであり、質的快楽主義は量的快楽主義と異なるものとして考えられるという再反論が示されている。

心理的快楽主義

 心理的快楽主義に対するシジウィックの批判のポイントの1つ目は、私たちには自己の快楽以外に向かう欲求が存在する、ということである。
 ミルの考えにしたがえば、例えば徳は「もともとは幸福(快楽)を得るための手段(Ibid.)」だが、「それがもたらす幸福と(観念)連合することによって、手段としてではなく、幸福の一部として望まれている(Ibid.)」ものである。徳だけではなく、金銭や権力、健康といったものを同様であり、こうした快楽以外に向かう欲求は快楽と連合しているため、「快楽への欲求から区別できない(53)」。よって、こうした欲求があるということは「人が快楽以外の何かを欲するということの証拠にならない(Ibid.)」と考えられている。また、空腹の欲望など「純粋に肉体的、生理的な欲求や快楽(54)」は、快楽と「初めから自然的に結び付いている(Ibid.)」とされるため、同様である。
 これに対して、「快楽は、欲求の適切な対象(食物)とそうでない対象(たとえば石)を見分けるためのヒントあるいは目印にすぎない(Ibid.)」という反論が想定されている。
 この反論には、いずれにせよ「現象的には、食べることへの欲求は快楽への欲求から区別できない(Ibid.)」ということ、この反論が欲求という事象の説明が正しいかどうかは「経験的な証拠に基づいて答えるべき事実の問題(55)」であって、いくつかの研究がそれを否定するだろうということの2点が再反論として挙げられている。
 2つ目のポイントは、自己の快楽以外への欲求と自己の快楽への欲求は両立不可能な場合があるということであった。
 ミルによると、欲求と意志は区別される。欲求は「受動的な感受性の状態であり、究極的には快楽に差し向けられる(Ibid.)」が、意志は「能動的な現象であり、快楽以外の物事に差し向けられる(Ibid.)」とされる*3。快楽以外への欲求が快楽への欲求と両立不可能に見える場合は、「その何かは欲求されているのではなく意志されている(56)」のであり、両者が両立不可能であるという批判の根拠とならない。

功利原理の証明

 以上より、シジウィックのミル批判は、質的快楽主義に対するもの、心理的快楽主義に対するもの、いずれも十分なものではないとされる。功利原理の証明に対するシジウィックの批判の1つのポイントは、心理的快楽主義がそもそも間違っているというものだったので、この点に関しても十分な批判とは言えない。よって、ここでは残りの2つの批判ポイントが検討される。
 まず1つ目のポイントは、心理的快楽主義に基づいて倫理的快楽主義を基礎付けることができないという点にあった。しかし、ミルは「人は現実に幸福を欲しているという事実から、人は幸福を欲するべきであると抽象的に推論しているのではない(57)」という。では、ミルはどのように考えたのか。
 ミルは「人々があるものを現実に欲していないとすれば、それが望ましいということを誰かに説得できる証拠は無い(Ibid.、太字部分は原著では傍点)」と考えるという。それは1つは「自己や他者の幸福を欲する人が、これまでに誰もいかったと仮定すれば、自己や他者の幸福が望ましいあるいは善いということを示す証拠は無い(Ibid.)」ということであり、もう1つは「少なくとも自己や他者の幸福を欲しているという経験的な事実は、自己や他者の幸福が望ましいということに対する一応の証拠になる(57‐58)」ということであると考えられている。
 2つ目のポイントは、仮に心理的快楽主義から倫理的快楽主義を基礎付けることができたとしても、それは私たちが社会全体の幸福を欲しているという「心理的普遍的快楽主義」でなくてはならない、という点であった。ミルの証明における心理的快楽主義とは普遍的快楽主義と呼べるものであろうか。
 ミルは功利主義道徳の基盤となるものとして「同胞と一体化したいという欲求(58)」を挙げているという。しかし、この欲求が功利原理の証明に役立つもの、すなわち心理的普遍的快楽主義を述べたものだとしても、それは「文明の進歩に応じて、ますます多くの人が、ますます多くの他人の幸福を欲するようになるという、不完全な心理的普遍的快楽主義を意味するにすぎない(Ibid.)」と指摘される*4。ミルは「完全な心理的普遍的快楽主義は採用していない(59)」ようだ。よって、シジウィックの立場からすると「不完全な心理的普遍的快に基づいて、倫理的快楽主義を正当化することはできない(Ibid.)」という批判が成立する。
 本論文では、「これまでに生きた大多数の人が自己の幸福や他者の幸福を欲しているという事実は、自己の幸福や他者の幸福が(各人にとって)望ましいという一種の倫理的快楽主義を支持するかなり強い証拠になる(60)」と考えられつつ、「不完全な心理的普遍的快楽主義は、社会全体の幸福すなわちすべての人の幸福が(各人にとって)望ましいという倫理的普遍的快楽主義を支持する不十分な証拠にしかならない(Ibid.)」とも述べられている。よって、ミルの証明は一定の意義は有していても十分なものではないとされる。


 以上、本論文はシジウィックのミル批判について端的にまとめられている。

 個人的には、シジウィックの批判は基本的に妥当に思えた。
 最大化すべき快楽の量とは快楽の価値のことである、という批判の交わし方は、シジウィックが質の差を量の差に還元するべきという指摘を、「価値」という言葉に置き換えただけで同じことではないか。快楽の量も質も重要だということを認めたところで、結局は快楽の最大化を目指すためには比較考量しなければならないわけで、それを「量に還元」と言おうが「価値」と言おうが、快楽の比較を可能にする概念でなければならないはずだ。
 快楽と欲求は観念連合によって結び付けられているので区別できない、という点に関しては、ミルの言い分は頷ける。ただし、欲求と意志を区別するという考えは今後できればミルの考えを詳細に検討したい。心理的快楽主義はそれ自体なかなか論駁が難しいように思える*5
 多くの人が自己や他者の幸福を望んでいるという心理的事実が強い証拠になるとされているのは疑問。最後の結論の見る限り、人間が利他的であるという心理的事実と、社会全体の幸福が望ましいという倫理的規範の差自体はきちんと考慮されているように思えるが、にもかかわらず、前者(ないし利己的であることも含んだ心理的事実)が後者の強い証拠になると素朴に述べられている点は少し解せない。

*1:これは量によって決まると考えたベンサムを批判する見解である。

*2:これを「倫理的快楽主義」と表現するのはややミスリードを誘うように思える。「他の人々の幸福を追求すべきである」というのは、倫理的利他的快楽主義と呼ぶべきものであろう。本論文では、後の記述で「倫理的利己的快楽主義」と「倫理的普遍的快楽主義」が区別されているため、ここで後者の意味として使用されているようだが、「倫理的快楽主義」だと前者も含むし、後者は「他の人々の幸福」ではなく「社会全体の幸福」を対象とするものだろう。

*3:非常にカント的である。ただし、カントの考えでは意志=純粋意志は道徳法則に規定されているが、意志=選択意志は道徳法則と自愛(幸福)の原理の両方にまたがる。ここでの「意志」がどちらの意味か定かではないが、素朴な意味での人間の意志である選択意志は、快楽に向かうこともある。というか、素朴に考えて私たちの意志は快楽に向かうことも出来るし向かわないことも出来るだろう

*4:やはり、この点に関して「心理的普遍的快楽主義」と「心理的利他的快楽主義」を区別すべきだろうと思う。私たちが多くの他人の幸福を欲するという心理的事実と、社会全体の幸福を欲するという心理的事実は、全く質が異なるものだ。本論文はこの差が看過されているわけではないように思うが、ややおざなりにされているような印象も受ける。

*5:フロイトタナトス論あたりは昔ちょっと勉強したけど、またやれるといいな。