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児玉聡(2010)『功利と直観 英米倫理思想史入門』勁草書房 5/10

 今日も以下の本の続きです。
 

 児玉聡(2010)『功利と直観 英米倫理思想史入門』勁草書房

 本記事は、「第五章 直観主義の逆襲――プリチャードとロス」をまとめます。金土はまとめお休みするかも。



第五章 直観主義の逆襲――プリチャードとロス

 本章は、20世紀の直観主義が扱われる。前回とりあげたシジウィックとムーアは、功利主義の根本原理を直観主義的に受け入れた。特にムーアは「自然主義的誤謬」の指摘によって直観主義者を勢いづかせたと言われた。20世紀の直観主義者は「もっぱらムーアからインスピレーションを得ていたように思われる(113)」という。
 本章で具体的に取りあげられるのは、プリチャードとロスの2人である。彼らの理論を検討することを通じて、前章とあわせ功利主義直観主義の特徴が「中間のまとめ」として整理されている。本章は、本書全体の一つの区切りとなっている。

1.プリチャードの説明拒否

 プリチャードの基本的な考えは、ムーアの「善」の概念に関する説明を「正」の概念にも当てはめ、道徳的に正しい行為をなす理由までも説明不可能とすることのようだ。彼は多くの道徳哲学者が「われわれが通常義務と思っているものは、本当に義務なのか」「なぜ義務をなさないといけないのか」という2つの問いに答えようと試みてきたが、それを試みること自体が間違っていると考えた(114)。道徳的な行為については、「ある状況に置かれたとき、その状況の詳細についてよく反省するなら、人はある仕方で行為する義務があることに気付くはずであり、気付かない人にいくら説明しても仕方がないので、仕方がないので、それ以上語るべきことはない(115)」のだという*1。よって、「ある行為がある状況において義務であるかどうかは証明することはできないが、十分に注意深く検討すれば直接的に「見る」ことができる(116)」とされる。
 プリチャードにとって、行為の正しさはそれを根拠づける善さとともに説明不可能なものであり、「直観によって自明である(117)」として非帰結主義を採用する。

2.ロスの一見自明な義務

 ロスの考えはプリチャードと基本線を同じにするが、やや穏当である。彼もまた非帰結主義を採用し、「いくつかの種類の行為が義務であることは自明であると述べる(119)」という。ただし、ロスはプリチャードのように個々の行為そのものではなく、「行為の一般的な種類のみが「一見自明な義務(prima facie duties)*2」として直観できる(Ibid.)」と考えた。
 この「一見自明な義務」はいくつか存在し、それぞれ対立し得る。嘘をついてはいけないことと友人を助けることは共に「一見自明な義務」であるかもしれないが、ある状況においては片方の義務を選ばなければならないかもしれない(友人を助けるためには嘘をつかなければならないかもしれない)。このような場合、「どれがその状況における「実際の義務」(actual duty, duty sans phrase)であるのかは自明ではなく、熟慮して決めるしかない(120)」と考えられている。酔って、私たちは具体的に何が道徳的な義務であるか、ということについてプリチャードが考えるような自明で確実な理解を得るわけではないのだ。
 ロスの考えは直観主義ではあるが、直観に対する全幅の信頼を寄せているというわけではない。彼のこうした思想は現代の生命倫理にも強く影響を与えているようだ。

3.功利主義直観主義――中間のまとめ

 ここで、功利主義直観主義の特徴がそれぞれ4つにまとめて挙げられている。

功利主義

一.道徳に関する自然主義。善さや正しさや道徳的義務などを独特(sui generis)なものとは考えない。
二.帰結主義。善を最大化する行為が正しい。
三.一元論。第一原理としては功利原理しか認めない。
四.常識道徳に相対的重要性しか与えず、それを改善することを重視する。(121‐122)

直観主義

一.道徳に関する非自然主義。善さや正しさや道徳的義務は世界の側に実在する客観的かつ独特(sui generis)な性質であり、われわれはそれを独特な仕方で直接的に知ることが出来る(直観できる)。
二.非帰結主義。正しい行為(義務)は、その帰結の考慮のみによって決まるものではない。
三.多元論。第一原理は複数あり、その衝突を解決するための明示的な優先原理はない。
四.常識道徳への依拠。道徳理論の正しさは、抽象的な原則によってではなく、道徳についてのわれわれの常識的見解に照らして判断される。(122‐123)

 これらは必ずしも全ての論者の特徴ではないし、若干の強弱もある。功利主義について言えば、「二と三の特徴は、大なり小なり、功利主義の根幹として今日まで続く(122)」ものであり、直観主義について言えば最後の常識道徳への依拠が「一から三のどの特徴を重視する直観主義においても多かれ少なかれ共有(123)」されているという。
 直観主義における常識道徳への依拠という特徴は、功利主義との論点として重要であるとされる。それは、「理論化される前の(pretheoretical)われわれの思考が、理論に優先する地位を持つ(125)」ことであるとされる。これは、端的に言ってしまえば現に人々が信じ従っている道徳を、人々の営みの中で無意識に蓄積された知として捉えることであろう。よって、「「現にある道徳」を功利主義者のように「実定道徳」と呼ぶか、あるいは直観主義者のように「常識道徳」と呼ぶか(126)」ということに注目することには大きな意味がある。「現にある道徳」とは、「実定道徳」と呼ぶ人たちにとっては「ある種の強制力(サンクション)を用いて人々に課せられたもの(Ibid.)」でしかないが、「常識道徳」と呼ぶ人たちにとっては「人類の知恵の結晶として特別な価値を持つ(Ibid.)」ものだ。

4.「直観主義」から「義務論」へ

 今日では「直観主義」とはメタ倫理学で扱われるが、功利主義と対立するように論じられるのは「義務論」であるという。では、本来功利主義と対立的に論じられてきた「直観主義」が、いつ頃どのようにして「義務論」へ取って代わられたのか。
 本書では❛deontology❜という言葉の歴史を調査する論文をとりあげその変遷が記述されているが、結論だけを述べると現在の「義務論」という言葉の用法は1930年前後に現れ、この言葉によって「「直観主義」が持っていた認識論的な含意が切り離され、より正確な用語法になった(132)」という。直観主義はすでに見てきたとおり、「義務は直観によって認識されるという認識論的な要素と、義務的な行為はその帰結にかかわらずなされるべきものであるという規範理論的な要素の二つ(129)」を持っている。これらが明確に切り離されることで、メタ倫理学的が使う認識論としての「直観主義」と、規範倫理学において功利主義と対立的に論じられる「義務論」が成立する、と大まかに理解していいだろう*3

 以上、ムーアの影響を受けて勢いを増した直観主義を通じて、功利主義直観主義の対立の争点がひとまずまとめれた。直観主義はこの後時代遅れになっていったが、ロールズの登場によって再び注目を浴びることになるという。

*1:大学院生の時に哲学購読の授業で、当時世間を賑わせていた佐世保の事件について教員と話をしていた時、「ああいうことする人は頭がおかしいんでしょう」と言っていたことを思い出す。その教員は倫理学が専門ではなかったが、プリチャードに似たような直観主義的な考えをもっていたのかもしれない。本書ではプリチャードの主張が(理由を求める人にとっては)過激であるとも評している(117)が、日常レベルでこのように考える人は決して珍しくないように思う。

*2:「一見自明な義務」とは、「実はよく考えてみるとそうではない」という意味ではなく、「当の状況の本質に含まれている客観的な事実」だという。なお、「一応の義務」という訳もあるようだ(263、注(3))。

*3:ただし、「「義務論」という言葉が登場したことによって十九世紀以前の議論と二〇世紀以降の議論の連続性が失われたという側面があることも見逃してはならない(133)」と指摘される。