読書メモとか、なんか書きます。

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『低志会 会報 第1号』感想

 先日、低志会さんの会報をBOOTHで購入したので遅まきながら感想を書きます。

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1.「厚さ3ミリ・余白2ミリ」(オガワデザイン)

 低志会狂気の頒布物、「石のアクリルスタンド」についてのエッセイ。それはただの石グッズなんかじゃない、というこう書くと何言ってるのかよく分からないことが綴られている。だが、実は私自身、このエッセイを読む少し前から似たようなことを考えていた。

 考えてみると、拾った石を保管することはそれほど容易ではない。幼いころ、従兄と2人で河原の石を拾い集め親戚たちから顰蹙を買ったことがある。その気持ちは大人になった今ならよくわかる。娘も石(だけではなく虫とかも)を拾おうとする。

 だが、石を家のどこに置くのか。まず汚い。洗わないといけない。洗ったところで置く場所はない。おもちゃ箱に入れるわけにもいかない。玄関なら洗わなくてもいいかもしれないが邪魔だ。というかどこに置こうが邪魔だ。しかし、アクリルスタンドだったらどうだろう。棚に飾ってもいいし、まぁおもちゃ箱に入れてもいい。何より邪魔にならない。これは人知の詰まった優れた工作=創作物だったのだ。

 思えば、押し花がある。虫の標本も発想としては同じかもしれない。人間は昔から、儚い立体物の生命を平面化することによって半永久的に愛でる術をもっている。石が生命なのかは所説あろうが。

 そんなことが書かれているわけではないが、そう遠くもない、オガワさんのモノづくり精神が滲み出るエッセイ。


2.「石と蟹の旅」(noirse)

 石より蟹がメインのエッセイ。蟹をモチーフにした様々な作品に触れながら、蟹との出会いの意味を問う。

 何かすごく深い人生の話をしているようで、実際は蟹の話しかしていない。いや、蟹こそ人生の最もコアな部分を象徴する存在なのかもしれない。多分そんなことはない。奥深いのかくだらないのか。きっと、その両方であって、どちらでもないのだろう。

 内容はさておき、あるモチーフについて様々な作品や解釈に触れながら意味を問う手法は、書き手の力量が問われるように思う。「へぇ、この人も蟹について書いてるんだ」「蟹はどうでもいいけど、この作品は面白そうだぜ」「まだ蟹の話すんの?」といった印象を読者に残すためには、様々なジャンルに精通している深い教養と、作品に鋭くせまる感性が求められるはずだ。その力を見せつけてくれるという点では、今回の会報で1番批評的に優れた文章ではないかと思った。

 noirseさんはただ蟹とキャンプの話をしているだけのおじさんではない。そういうことを深く印象付けるエッセイ。蟹の話しかしてないのに。


3.「夜の底で、アニメの女の子と読む」(安原まひろ)

 いつかのスペースで「安原さんのエッセイは途中からちょっとおかしくなるんですよね」みたいなことを、低志会のどなたかが仰っていた気がする。私も、最初読んだときは「あれれ~おかしいぞ~」となった。具体的には、10-11頁を読む限りでは「うんうん、分かる分かる」という感じだったのだが、12頁に入ったとたんに「ん?流れ変わったな」となった。

 だが、よくよく読み返してみると、安原さんはずっと同じ話をしている。「アニメの女の子と飲む」ということについてずっと書いている。だとすると、問われるべきは「なぜ途中で話が変わったのか」ではない。「なぜ話が変わったように思えてしまうのか」である。おそらくそれは、私たちが「アニメの女の子と飲む」ことを非現実的なことだと、単なる妄想だと考えてしまうからだ。だが、このエッセイをきちんと読めば分かる。これは極めて現実的な話だ。

 「アニメの女の子と飲む」ことはできる。それは妄想ではない。夢でもない。だから単に楽しいだけのものでもない。どこか寂しいものでもある。普段はスクリーンで隔てられている私たちと彼女たちの間に、グラスに注いだアルコールというヴェールが重ねられるだけのことなのだ。普段よりも少し滲んだ彼女たちの愛しい横顔に、滲んだ分だけどういうわけか少し近づけた錯覚に陥る。ただ、それだけのことなのだ。

 『なんかいのんでも』を読み、「アニメの女の子と飲む、いいですね」とか言いながらキャッキャしていても、実は何も分かっていないことを気づかせてくれるエッセイ。ちなみに『なんかいのんでも2』を読んだ感想を一言で言うなら「妄想が過ぎるぞ!(歓喜」です。


4.「もうひとつの『おにまい』解題」(てらまっと)

teramat.hatenablog.com

 上記記事の解題エッセイ。元記事にも(そしてフロイトラカンたち、おそらくベンヤミンにも)言えることなのだが、ある表象(作品)を別の表象(社会的事象)に「無意識」を媒介して結びつける手法は、一種の名人芸のようなものであり、それが優れて説得力がある文章であればあるほど、注意が必要だ。早い話が「誰でも簡単に書けるわけじゃないから安易に真似すんなよ!」ということである。

 本エッセイではいくつかの「符号」を散りばめながら作品と社会的事象、そしておそらくてらまっとさん自身の問題意識を結びつけているが、文中にもあるように、因果関係を論じているわけではない。むしろ、因果関係が存在しない(あるいは論証できない)にもかかわらず「符号」する、というところに「無意識」の一致を読み取る、というアクロバティックな論法だ。

 このアクロバティックさが魅力でもあり危うさでもある。気安く真似ると火傷する。そして本人もたまに火傷している。そんな危うさを感じさせるエッセイ。