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続・とんかつDJ功利主義太郎(※とんかつDJの話はしていません)

 noteに書いた記事の続き(?)である*1

 

note.mu

 功利主義について勉強し始めようと思ったきっかけは、詳しいと思われる方から記事を紹介されたからなのだけど、前回はとんかつDJの話ばかりしてしまった。

 なんで?


 あまりふざけていると思われるのもアレなので、今回は真面目に記事を読んで思ったところを書いていきたいと思う。いや、前回もそこそこ真面目だったんですけど。

 

mtboru.hatenablog.com

 

 直接リプをいただいた記事は別なのだけど、功利主義の概要に関してはこちらの記事が参考になるので、まずはこっちに目を通して考えたことをまとめておきたい。


 前の記事でもチラッと触れたけれど、僕はそもそも功利主義では道徳や倫理を基礎付けることが出来ないと思っている(正確に言えば前提として普遍化の要求を基礎付ける理屈が必要だと思っている)ので、疑問や知りたいことも色々あるんだけどまぁ、今回は記事を読んで思ったことを3つにまとみてみた。

 

 

1.規範性の問いに応えてくださいなんでもしますから


 ん?


 規範性の問い*2、というのが道徳や倫理を考える上では大事だと僕は考えている。それは平たく言えば、道徳的な義務の要求に従う「べきなのか」という問題だ。

 「嘘をついてはいけない」とか「人を殺してはいけない」とか、そういった様々な道徳的義務を私たちは要求される。これらの要求に従う「べき」なのか。


 少しだけ(本当に少しだけ)難しいところだけど、これは「義務が人間社会に存在するのはなんで?」という問題じゃない。社会に存在する多くの義務はそれなりに合理的な説明が出来るだろうけど、その義務に私は従わないといけないのか。これは人間の(私の)生き方を問う、という意味で本質的な問いだと思う。*3

 功利主義は道徳的義務が社会に存在する理由をそこそこいい感じに分析して説明すると思う。でも、そうした義務に従う「べきか」という問題に応えることが(前提として義務論のような考え方を置かずに)出来るのか。

 先の解説記事でも功利主義の魅力がまとめられているが、それらが規範性の問いに応えられものにはあまり思えない。


 あるいは、規範性の問いに応える必要などない、と考えるかもしれないけれども、やっぱりそれだけでは倫理や道徳の問題を決定的に取りこぼすことになると思う。
 例えば、臓器くじの事例など、それをよく表現している。

 

ja.wikipedia.org

 

 Wikipediaに記事もあるので参照していただければいいけど、せっかくなので(?)臓器くじを秘封で説明してみようと思う。え?秘封を知らない?それで幸福になれるとでも?

 

 メリー「良い知らせと悪い知らせ、どっちから聞きたい?」
 蓮 子「んー、じゃ良い知らせ。」
 メリー「蓮子がくじに当選したの。」
 蓮 子「めでたい!じゃ悪い知らせは?」
 メリー「蓮子は死ぬ。」
 蓮 子「めでたくない!てか、幸と不幸のバランスおかしくない?
     悪い知らせでしかないわよ!」
 メリー「実は良い知らせはもう1つあるの。」
 蓮 子「それを先に言ってよ。」
 メリー「蓮子の臓器を使ってたくさんの人の命が救われるわ。」
 蓮 子「いや知らんわ!私にとっては良い知らせじゃないから。」
 メリー「でも、これで世の中の全体の幸福は増えるのよ。
     歓迎すべきことだと思わないかしら?」
 蓮 子「うるさいわ!この功利主義クソ野郎が!死ね!」

 

 誰か漫画にして(しなくていい)。


 蓮子の不満は、規範性の問いに関わる不満だ。彼女は単に「死ぬのは嫌だ」という願望を訴えているのではない。「こんなことで自分が死ぬのは不当である」と訴えている。

 功利主義の立場が必ずしも蓮子を殺すことに賛成するわけではないだろうけど、たとえ最大多数の最大幸福に従って蓮子を殺すべきという結論が出たとしても「その結論は不当である」と蓮子は訴えるし、それは「最大多数の最大幸福に適合していようがいまいが、その要求が正当でない」という訴えになる。

 一言で言うと、ここで提示されているのは「どうして最大多数の最大幸福なんぞに従わなきゃならんのだ」という疑義だ。*4


 問題は功利主義がどのような結論を出すかでも、どうすれば多くの人が納得できる結論を出せるかでもない。要求された義務を人が(私が)引き受ける根拠付けはいかにして可能か、ということが問題だ。平たく言えば、「どうして人は(私は)最大多数の最大幸福を求めるべきなのか」という問いに応えることが出来るかどうかだ。

 それは果たして、論理的整合性を有しているとか、実証性を備えているとかの長所によって応えられるだろうか。*5

 

 

2.「直観」に振り回されて、夏

 

 臓器くじの例はとても使い勝手が良い。2つ目の疑問を挙げるにも役立ってくれるんだ。あとでジュースを奢ってやろう*6

 先の解説記事では臓器くじに関連して、なんだかもやる記述が見られるので、引用してみる。

 

例えば臓器移植を必要としている人が5人いたとしよう。そうするとこの社会制度があれば、1人が死ぬことによって5人を救うことができる。功利主義的に考えるといいように思われるが、これは私たちの直観に反するように思われる。

 

 「直観に反する」とはどういうことか。ここでどうしてそのようなことが問題になっているのか、よく分からない。

 とはいえ、自分もとんかつDJの記事で、功利主義は素朴に受け入れやすいということを書いた。それを「直観的に受け入れやすい」と表現してもいい。だが、直観的に受け入れられるか否かが判断の基準ではないはずだ。だってそれだと直観主義*7になるやない。


 「直観に反する」結論を導き出せることは、むしろ功利主義が大いに誇るべきところだろうと思う。例えば、豚や馬の快楽や苦しみを人間のそれと同等に扱うという考えなんか、受け入れやすいものじゃない。けれど、こうした考え方を導き出し、それがどれだけ受け入れがたく思えても一定の説得力をもつ(快楽や苦痛は確かに人間だけが感じるものではない)ところに、功利主義の魅力がある。

 ところが、どうもこうした直観に合わせて議論が進んでいるようなところがちょこちょこある。例えば、行為功利主義と規則功利主義に関する議論の説明を引用してみよう。

 

しかし行為功利主義では、先ほどの「臓器くじ」を道徳的に正しいとしたり、約束を破ってもいいとなったりする。これは私たちの直観と合わないのではないだろうか。このような、行為功利主義が直観に合わないという批判に答えるために考え出されたのが規則功利主義である。

(中略)

以上の二つの問題点を考慮すると、私たちは行為功利主義を支持したくなるが、しかし行為功利主義は反直観的な帰結をもたらすのだった。

 

 このあたりの議論は、どうも直観に振り回されてしまっているように見えてしまう。直観に合うか否かをここまで気にするのはどうしてか。


 おそらく、無理解に対する説得(なんか変な結論が出るように思えるかもしれないけど、よくよく考えるとそんなことはないんだよ~^^)と、理論を精緻化する議論(最大多数の最大幸福とは規則によるものか行為そのものによるものか)が綯い交ぜになってしまっているのだろうと思う。

 けれども、直観的な違和感があろうがなかろうが、最大多数の最大幸福を行為そのものによって考えるのか規則によって考えるのか、という議論は成立するはずだし、それが直観的な違和感への応答という意味で重要なのであれば、2つの考え方の区別と直観的な違和感との繋がりが示される必要がある。


 要するに、この辺りの議論は「お、こう考えたら直観的な違和感があるっていう批判をかわせるんちゃう?」という形で(かなり雑に)捻り出されたものに思えてしまうの。*8


 ちょっと話を横道に逸らしていいかしら?ありがとう。好き。


 こうした議論の進め方は、定期的にちょこちょこ流行する政治哲学や法哲学の議論に触れるときにいつも疑問に思う。これらの議論では、様々な具体例を挙げながら功利主義や義務論、コミュニタリアニズム等の考え方を紹介していくことが多い。

 具体的なイメージを挙げるとこんな感じで進みませんか?

 

 「事例Aにおいて功利主義は○○という選択をする」
 「なるほど、功利主義は良さそうだ。」
 「だが、待って欲しい。事例Bを考えてみるとどうだろう。」
 「××という選択になると思うが、これは問題じゃないか?」
 「ここで義務論で考えてみるとどうだろう。」
 「△△という選択になるだろう。うん、悪くない。」
 「では義務論がいいかというと、事例Cのようなケースでは……」

 

 なんちゃらデル先生のほにゃら熱教室でありそう。


 こうした展開は様々な考え方を理解してもらうための工夫ではあるだろうが、それぞれの事例で考え方を切り替えていく、その判断基準はいったい何なのか。それを検討せずに、「この選択はいい感じね!」「その選択はな~んかおかしいよなぁ?」という素朴な感覚を利用して議論が進んでいないか。

 それは根本的に何かを見落としているように思う。


 多分「直観に反する」という違和感をきちんと分析することが大事だ。臓器くじの例であるなら、くじのような形で「1人の死で5人を救う」ということに対して多くの人は直観的な違和感を持つわけだけど、その正体は何なのか。そこから、どのような精神構造が読み取れるか。それを問う必要がある。

 こうした直観の中には、「人それぞれだよね~」とかいう、ゆるふわ脳みそスカスカ感想で終わらせてはいけないものがある。様々な形で提示される直観的な違和感を分析することを通じて、私たちが生きるうえで何を求め、何を忌諱するのか、ということをしっかり考察しないといけない。*9

 

 

3.何をどこまで考えればいいのか

 

 3つ目の疑問も前回から続きで考えてみる。規則功利主義と行為功利主義の議論から話を始めよう。解説記事の筋をまとめてみると


 「行為功利主義は直観に反することがあるね。」
 「規則功利主義で考えてみたらどうやろ。」
        ↓
 「う~ん、でも規則功利主義にも問題があるね。」
        ↓
 「問題点を考えてみたら行為功利主義が良さそうね。」
 「でも、行為功利主義は直観に反することがあったね……。」

 

 こうして、それぞれ問題があるというジレンマ的状況から、両者を「いいとこ取りをした」という「二層論理」というものが提示されている。

 

二層理論では、私たちの道徳的思考を、直観レベルと批判レベルという2つのレベルに区別する。普段の日常生活では直観レベルで考え、直観的規則に従って行為すべきである。しかし直観的規則の選択や、直観的規則の衝突時には、批判レベルに移って、行為功利主義的に考えるべきだとする。「つまり、普段は直観的に正しいと思える原則に従って行為すべきだが、それでは問題が解決しないときには功利主義に従うべきである」ということになる*20。これは非常に完成された功利主義の一形態といえる。

 

 ここは単純によく理解出来なかった。もしかして僕は頭が悪いのでは?


 てっきり、「両者を組み合わせてなんとか直観に合うようにしよう^^;」という展開が待っていると思っていたけど、「直観的に考えて解決しないときは行為功利主義的に考えよう^0^」となるようだ。

 「直観的規則に従って行為する」というのが規則功利主義に対応しているようにも読めるけど、だとすると規則功利主義とは直観的規則に従うことなので、それは単に直観主義に思える。そうでないなら、ただ行為功利主義の考え方に従うことが二層論理に思える(功利主義的な考え方に基づいているのは批判レベルだけなのでは)。

 それとも、単に「日常的な判断は直観的に考えればいいじゃん?」という前提を置くのが二層理論ということだろうか。いずれにしても、これで最初のジレンマ的状況がそもそも解決するように思えない(というか、この結論でいいのならジレンマ的状況など最初から無い)。


 単なる記述の問題(あるいは僕の理解力不足)かもしれないけど、それ以上に最大多数の最大幸福をどう考えるのか、という重要な論点が見落とされている気もする。

 解説記事では、行為功利主義と規則功利主義の違いが「最大多数の最大幸福を達成する方法の違い」であると述べられているが、これがどういう意味かは注意深く考えたい。なぜなら、両者は視野が全く異なるように思えるから。


 行為功利主義に基づけば、「最大多数の最大幸福」を実現するためにそれほど多くを考える必要が無いかもしれない。だけど、規則功利主義ではそうはいかないはずだ。ある行為がもたらす利益/不利益は、ある程度の狭い人間関係や集団、短期的な時間経過を想定すれば計算できるかもしれないけど、行為の規則に人々が従うことでもたらされる利益/不利益は、その範囲を広く捉え、長期的な見通しを持たなければ計算することは難しい。

 要するに、「最大多数の最大幸福」を実現するために、考慮の範囲をどこまで想定するか(狭い集団の話なのか、国家単位なのか、あるいは人類全体か)、どれほどのスパンで見通しを立てるのか(今いる人間だけなのか、集団の連続性が続く程度の未来か、未来永劫か)。こうした視野が行為功利主義と規則功利主義では異なってくる気がするんですよ奥さん。


 というか多分、根本にあるのはこうした視野を確定することの難しさなんだと思う。そもそも、行為と規則という区別で考える理由がよくよく考えてみると分からない。ここで挙げられている種々の(直観的な)疑問は(「嘘をつくことを認めていいの?」「嘘をつくことが規則として成立しないとしても、どんな時でも嘘をついてはいけないの?」)、道徳的な判断や功利計算には「何をどこまで想定するべきか」という重要な問題がついて回ることを示す反応なんじゃないか。

 つまり、行為か規則かという区別は直観的違和感に応えるためというより、最大多数の最大幸福を考える際に何をどこまで想定するべきか、という問題に切り込むためにあると思うの。


 これは「幸福とは何か」という重要な問題を考えるときも同じだと思う。

 解説記事でも幸福の概念がいくつか示されているが、こうした議論が必要なのは「幸福」というものをどのような視野で考えるのか、ということが直観的な違和感があろうが無かろうが重要な問題だからだ。*10



4.まとめてみる

 記事を読んで出てきた疑問を3つにまとめてみた。あまりまとまっていない気もするけど。

 これからちょこちょこ勉強して理解を深めていけたらいいとは思っているけれど、1に関しては功利主義から応えられるとあまり思っていないので、2と3の疑問を中心に勉強してけたらいいと思う。特に直観の扱い方は、これから読もうと思っている本のタイトルがまさに『功利と直観』なので、ピンズドじゃないかと勝手に思っている。

 3は時間論や自己論など、もっと大きなテーマと関係してくるので、自分の哲学観を完成していくなかで答えが見つけられたらいいな、と思う。というか、答えはなんとなく見えているんだけど、言語化する段階にない。


 言葉にするって大事。今回久しぶりにこういう文章を書いたので、良い機会だったと思う。仕事が暇な時期だったというのもあるけど、これからもちょこちょこ書けるといいなぁ、と思う。

 ところで、今週まで大澤真幸社会学史』を読んでいたので、次回はその記事でも書ければいいかな。功利主義はどうした?

*1:はてなブログだと脚注がつけられるんだ!と感動したので(無知)、ちょっと長くなったし今回はこっちで書きます。使い分け出来そうにない。

*2:「規範性の問い(The Normativity Problem)」という言葉は、直接的にはコースガード(『義務とアイデンティティ倫理学』等)から借りているけど、個人的には永井均『倫理とは何か』のプラトンのところを読むのがいいと思う。「Why Be Moral問題」と呼ばれる問いとも共通していると思うけど、この手の現代倫理学には明るくない(あまり興味がない)。

*3:こういう話をすると「行為の結果より動機を重視する考え方なんすね~^^」みたいな話になりそうな気がしないでもないけど、そういうことでもない。僕が重視しているのは動機(reason)というよりは意欲(will)であって、私の行為が何に向けられているかが大事なんだと思う。簡単に言うと「人は(私は)どう生きるべきか」ということが関心事なのであって、「行為の結果と動機、どっちを重視するの?」みたいな問いは二次的な(あるいは作為的な)問題でしかないように思う。

*4:ちなみに、約束の例も同じく規範性の問いに関わると思う。おそらく死んでしまった友人には合意する機会が永遠に奪われていることがポイントだ。つまり、その人の意思を確認することができない以上、寄付に対して疑義を呈する機会自体が奪われてしまっていることに、私たちは居心地の悪さを感じるのだ。それは規範的な問いに関係するはずの存在を、問いから不可避的に疎外してしまうことに対する違和感と言えるかもしれない。

*5:個人的には、功利主義の原則を毀損せずにこの問いに応える方法はあると思う。ただし、それは功利主義を道徳の根本原理とはしない(実用的な原理に留める)。

*6:9本でいい。

*7:いわゆる倫理的直観主義等と呼ばれるような論説には明るくない。というか興味が無い。ここで「直観主義」と表現しているものは、倫理学の世界で議論される「直観主義」とは異なるかもしれない。その点は専門家にとっては重要な問題かもしれないけれど、ここでの関心事では無い。問題にしているのは学説上どのような立場が相応しいかではなく、功利主義の考え方が直観を基準に右往左往していいのかな、ということにすぎない。「いいのだな」と言われたら、「そうすか」と言うしかないけれど、功利主義ってのは直観的な選択にそれっぽい理由を捻り出す学説なのか~となっちゃう。そんなはずはないと思うけど、そんなはずあったらごめんなさい。

*8:これは単に記述の仕方(あるいは読者=僕の理解力)の問題なのかというと、それだけでも無いかもしれない。行為功利主義と規則功利主義の議論は直観に合うとか合わないとかではなく、「最大多数の最大幸福とは何か」という問題に関わるものだと個人的には思うのだけど、どうもそのような議論にはなってないように読めてしまう。この点に関しては、3つ目の疑問。

*9:名前が残る先人たちが偉大なのは、こうした人間に対する洞察を思想として積み上げてきたところにあるんだろうと思う。そこには勿論、独断や偏見に満ちたものがあるけれども、それを恐れていて道徳に関する議論が出来るんだろうか。要求された義務を正当なものとして引き受ける可能性の条件を探るためには、やはり人間存在や精神の在り方についての深い洞察が必要だと思う。

*10:特に、「選好充足説」に対する批判として紹介されている2つの事例は、そのことを端的に表現している。現在の私にとっての幸福と未来の私にとっての幸福が対立する、ということはいつでもあり得る。今の「最大多数」と未来の「最大多数」でも、その利益が対立する可能性は全く否定できない。このことは「未来のことは確かに分からないが、私たちは今の時点での最大多数の最大幸福を考えるしか無いし、それを常に修正していくしかない」という正しい結論で納得できはしない。「今」は未来を内包する。1時間後の私は「今の私」のうちに含まれないのか、と考えてみればよい。純粋な「今」「現在」は思弁的に想定された抽象物でしかなく、私たちの存在は過去―現在―未来に遍く広がっている。どこまでが今の私でどこからが未来の私なのか、それは論理的に捉えることが出来ないし、まして実践的にはもっとあやふやだ。というか、論理的にはそもそも私という実態は虚構であって、その肉付けをするのが実践なのだ(「私」として振舞う、生きる)。それは「最大多数」でも同じなのかもしれない。虚構としての「最大多数」は、「最大多数」としての実践(振る舞いや生の在り方)によって肉付けされる。そのとき私たちは何にコミットして「最大多数」に寄与するのか。それが功利主義の理屈の中から出てくるようにはあまり思ってない。