読書メモとか、なんか書きます。

読書メモとかを書きたいと思ってます。読みたいけど持ってないもの、乞食しておきます。https://www.amazon.jp/hz/wishlist/ls/38X64EIBO2EJ?ref_=wl_share

ケア倫理の話

この文章は、昨年の12月から1月ほどケア倫理関係の本をいくつか読んでいたので、そのメモを基に考えたことを漠然とまとめたものです。文章のほとんどは2月頃に書いたものなのですが、多忙期に入り放置していた下書きを仕上げました。メモの時期、大まかな文章を書いた時期、まとめた時期がそれぞれずれ込んでいるせいで、読書メモとも言い難い脱線した変な内容になっていますがご了承ください。

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「「ラブコメ・ヌーヴェルヴァーグ」についてのラフスケッチ」についての一解釈

 先日のスペースで、てらまっとさんの「母と子の物語 「ラブコメヌーヴェルヴァーグ」についてのラフスケッチ」(以下、ラブヌヴェ論)について熱いバトルが展開されていた。ラブヌヴェ論は、年末のコミケで頒布される『アニクリ vol.12』に収録されている。





 スペースの議論にあわせて公開されたテキストには、ラブヌヴェ論とそれに対するいくつかの応答が収録されていた。個人的な印象では、これらの応答やスペースでの議論では十分に顕在化していない、あるいは、もしかしたらラブヌヴェ論自体が明示的に語り得ていないかもしれない意義があるように思えた。

 そこで、ラブヌヴェ論を自分なりに解釈してみたい。もしかしたら、それは誤読で曲解かもしれない。それでも、自分なりに感じたポジティブな印象を言葉にしてみようと思う。

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祈りの意味-ほとんど娘の話-

 以下の記事に触発されて、少々掴みどころのないことをつらつらと書いてみようと思う。
teramat.hatenablog.com
 ただ、客観的には関係ないように見える文章になるだろう。僕に批評の話は出来ないし、ここでアニメの話をするつもりもない。

 この記事には色んな含意があるけれども、僕としては「ぼくらは、ぼくら自身を救わなければならない」という痛烈な問題意識に対する、藁をもすがる応答に思えたし、それは必ずしも的外れではないようだ。
 なぜ「ぼくらは、ぼくら自身を救」う必要があるのか。それは直接的には自らがなんとか安らかに生きていくためだが、この言葉が出てきた文脈を踏まえれば、誰かの安らかな生を脅かさないためでもある。そうした生の作法のようなものを掘り起こした文章なのだとすれば、やや乱暴に読み取るなら、「せめて安らかに生きるための作法を見つけてほしい」というささやかな祈りが込められているのではないか。
 ここに断絶と接続が複雑に絡み合っているように思えてならない。誰かの残したものが、別の誰かの道標になる。誰もが自分の人生をただ必死で生きているだけなのに、ふとした時にそれが一定の形式を備えた生の作法に見える。それは決して分かりあっていない。むしろすれ違っている。それぞれが自己完結し、自分語りをしているにすぎないようにも思う*1。それがどういうわけか、救いにも見えてしまう。そんな祈りが、誰かに届いているのかすら分からない。
 誰かの自己完結した語りに何かしらの意味を見出す言葉、その祈りはやがて消えていくだろう。そんな気がするのだ。

*1:元の記事に対するいくつかの反応を見ると、その印象が強くなる。特に若い人たちの文章は、それぞれの実存に絡んだ語りをし、互いにその語りは自己完結しているように思う。にもかかわらず、いや、だからこそ、それがまた別の誰かにとって救いになるかもしれないという逆説があるのではないか。

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志の低さについて考えてみたりする

www.youtube.com

 「低志会」という魅力的なワードに惹かれ、スペースを聴講していました。まだアーカイブを聞き返してはいないのですが、記憶を掘り起こしながら「志が低い」という生き方(?)について、強く共感する人間として簡単に思うところを書いてみたいと思います。

 

 入口は、スペースで終始キーワードとなっていた感じがあるpublicとprivateの話です。とりあえず、これらは空間的なイメージで捉えることが出来ます。私を中心として世界をイメージしたとき、きわめて近いprivateの空間と、それを包摂し遥か遠くまで広がるpublicの空間。あるいは、内と外と言い換えてもいいかもしれません。

 内と外と言いつつ、publicな空間はprivateな空間と重なります。publicなものに対するある種の嫌悪感は、まさにそこを支配する理屈や規範がprivateな領域を侵犯する際に催される気がします。外側から内側を踏み荒らされること。「志が低い」生き方には、こうした侵犯に対する戸惑いや憤りが寄り添っているように思えてなりません。 

 とはいえ僕たち(?)は、別にpublicの理屈や規範を否定したいわけじゃない。当然それは大切です。でも、privateな領域に対して、publicな価値の実現が強権的に求められてしまうと、ひどく息苦しく生きるしかなくなってしまう。  

 こうした空間的なイメージを時間的なイメージに置き換えれば、てらまっとさんの語る『けいおん!』の話に繋がります。つまり、privateは「今ここ」や「瞬間」に、publicは「未来」や「持続」に置き換えて考えることが出来る。「未来の人類の繁栄」や「持続可能な社会」を目指した試みによって、僕たちは「今ここ」で享受している生活を諦めないといけなくなるかもしれない。「未来」や「持続」は、 publicの時間的な様相に他なりません。 *1 

 publicの理屈や規範によって、privateが否定される(責められる)のは辛い。しかも、本当の辛さは、それが間違っているとは言えないところにあります。おそらく正しい。と言うよりも、その正しさを否定し得る(少なくとも真っ向から対峙し得る)強度をもった正義など、僕たちは持っていない。怒られたら謝るしかないのです。  


 ここに「志が低い」という言葉の含意を読み取ることが出来ます。自らのprivateな欲望を大事にしつつ、その正しくなさを自覚している。この「正しくなさ」は、直接的には「publicにとって望ましくない」という意味がありますが、「publicに向けて正当化できない」という意味もあるはずです。しかし、望ましくなくて正当化できないとしても、僕たちにはそのように生きることしか、きっとできない。そのように生きることでしか、充実した生はきっとあり得ない。  


 「感傷マゾ」や「青春ヘラ」も、こうした前提をある程度共有しているように思えます。しかし、気持ちよくなる。ここが単純に「志が低い」という生き方と一線を画すポイントかもしれません。単純に低い志は気持ちよさには至っていない。正確には気持ちよさを必要条件としてない、と言うべきでしょうか。少なくとも、そこに気持ちよさを見いださない(あるいは見いだせない)態度には、アイロニカルなナルシシズムを抑制しようとする、一層強い意思が見え隠れしています。なぜなら、こうしたナルシシズム自体が正当化されないことを、「志が低い」人は十分に理解してしまうはずだから。  *2

 

 僕たちのprivateな欲望はpublicにとって望ましくなく、正当化もできない。でもそう生きることしかできない。だったら、せめて気持ちよくなるしかないのか。それも躊躇いがある。「志が低い」とは、そういう生き方に思えます。

 なんだ結局それは開き直りじゃないか、と言われればそうかもしれません。でも、こうも思います。とこかで開き直ることもせず、生きていられるわけがない。僕たちのprivateにそんな強度があるなら、最初からこんな話はきっと生まれて来ない。

 本気でprivateや「今ここ」を守るためにpublicに訴えて戦おうと思うなら、存在しないなけなしの正義を搔き集めて、いっそ陰謀論にでも走るしかないかもしれない。「志が低い」生き方は、そんなナルシシズムの危険に対して、過剰な程に敏感です。自らの罪や加害性にあまりに自覚的であるが故に、志を低く保つしかない。そんな自己抑制的な生き方です。

 

 「志が低い」という生き方は単なる自己卑下にすぎないでしょうか。もしかしたら、そうかもしれません。でも、僕はこんな風に思います。それは、publicに対して、あるいはpublicからの侵犯に対して、志の低さを見せつけることで常に疑問を突きつける生き方なのではないか、と。

 

 でも、publicで堂々とやってる人はそんな疑問に気づきもしないんじゃないかなぁ、とか思えて、つらい。

*1:ちなみに『映画けいおん!』では「〈いつか・どこか〉にありながら、つねに〈いま・ここ〉にあるということ」が描かれているという、てらまっとさんの慧眼が発揮された論考があります。

ロンドン、天使の詩:『映画けいおん!』と軽やかさの詩学 ver. 3.5 - てらまっとのアニメ批評ブログ

ここでの文脈に置き換えると、彼女たちの生き方は、privateの狭さを克服してpublicな世界に踏み出すようなものではなく、あらゆる場所(〈いつか・どこか〉≒ public) を〈いま・ここ〉≒privateにしてしまうものに思えます。ここに、何か新しい可能性が確かにあるような気が、しませんか?

*2:「感傷マゾ」や「青春ヘラ」が単なるアイロニカルなナルシシズムにすぎないとは思いません。というか、自分たちが抱えるナルシシズムが正当化されないという自覚でさらに気持ちよくなる感じがあるので……最強に見えます。

水野俊誠(2019)「シジウィックの 「功利主義」 の批判的検討: 功利原理の 「証明」 とその限界」

 シジウィック3本目です。

 水野俊誠(2019)「シジウィックの 「功利主義」 の批判的検討: 功利原理の 「証明」 とその限界」『エティカ(Ethica)』Vol.12、pp.97-138、慶応義塾大学倫理学研究会

 前回に引き続き、水野さんの論文です。タイトルからして重要な予感がひしひしと。

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水野俊誠(2016)「シジウィックによるミル 「功利主義」 の批判について」

 シジウィック第2弾です。

 水野俊誠(2016)「シジウィックによるミル 「功利主義」 の批判について」『エティカ(Ethica)』Vol.9、pp.31-64、慶應義塾大学倫理学研究会

 水野さんも応用倫理学で名前をよく聞く人です。主に医療倫理の領域で。

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