読書メモとか、なんか書きます。

読書メモとかを書きたいと思ってます。読みたいけど持ってないもの、乞食しておきます。https://www.amazon.jp/hz/wishlist/ls/38X64EIBO2EJ?ref_=wl_share

読書メモ2 森岡正博他「生命の哲学の構築に向けて(1)」他、論文5本(2/3)

 どうも、今回の2本目です。一応、今回読んだ論文と、3本に分けたテーマをもう一度貼っておきます。

森岡正博、居永正宏、吉本陵「生命の哲学の構築に向けて(1):基本概念、ベルクソン、ヨーナス」『人間科学 : 大阪府立大学紀要』2007, 3, p3-68
 (このうち、森岡「第一章 生命の哲学とは何か」のみ)
森岡正博、吉本陵「将来世代を産出する義務はあるか?:生命の哲学の構築に向けて(2)」『人間科学 : 大阪府立大学紀要』2008, 4, p57-106
森岡正博「誕生肯定と何か:生命の哲学の構築に向けて(3)」『人間科学 : 大阪府立大学紀要』20011 8, p173-212
森岡正博「「生まれてこなければよかった」の意味:生命の哲学の構築に向けて(5)」『人間科学 : 大阪府立大学紀要』20013 8, p87-105
森岡正博「「産み」の概念についての哲学的考察:生命の哲学の構築に向けて(6)」『現代生命哲学研究』20014 3, p109-130

1/3 将来世代の産出義務について
2/3 「誕生肯定」論について
3/3 「産み」の概念の検討

 今回は前回の読書メモ1でも触れた「誕生肯定」論についてメモをまとめます.。論文としては③④です。


 「誕生肯定」論は『生命学とは何か』という著書において、人生を悔いなく生き切るため何をすべきか、自分を棚上げにすることなく探求しながら生きていく、という「生命学」の営みにおいて導入された(森岡2011, 173)。この「悔いなく生き切る」ということについて、「誕生肯定」という概念は「死に面したときに、「生まれてきて本当によかった」と深く心から自己肯定できること」とされる(Ibid., 174)。一方で、「生まれてこなければよかった」という誕生肯定の否定に他人を追い込んでいくことが、根本的な「悪」として捉えられる*1森岡は、上記の「誕生肯定」概念を一部修正を施しながら考察をさらに進め(森岡2011)、デイヴィッド・ベネターの『生まれてこなければよかった』批判を通じて、こうした言葉が意味しているのか考察する(森岡2013)。
 なお、森岡は昨年の10月に『生まれてこないほうが良かったのか? ――生命の哲学へ! 』という著作を発表しているので、本来ならこちらを読むほうが早いのだろうとは思う。手に入れることが出来ていないので、また読む機会を設けたい。
 今回は、以下の3つに絞ってまとめていく。

1.内在的誕生論
2.「誕生肯定」とそれを脅かすもの
3.「誕生肯定」はなぜ必要か

1.内在的誕生論

 森岡の「誕生」に関する考えは、「内在的誕生論」であるとされ、ハイデッガーアーレントへの言及がある。
 内在的誕生論とは、「誕生した本人が、自分自身の誕生を本人の視点から振り返って、本人の誕生の本質を考察すること」であり、一方で「本人の視点からは切り離された外在的な視点から、誕生した者の誕生について考察すること」が外在的誕生論と呼ばれる((森岡2011, 175-176))。
 森岡によると、私という存在が世界へ「投げられている」というハイデッガーの「被投性Geworfenheit」という概念は一種の誕生のことであるが(ibid., 177)、ハイデッガー自身は誕生の考察を進めていない。一方でアーレントは「人間がこの世に生まれ出てきた」という第一の誕生と、「それをいまここで引き受けつつ複数性のもとで活動へと漕ぎ出すという新たな始まり」という第二の誕生を繰り返し語っているという(Ibid., 178)。しかし、アーレントの誕生論も十分に考察されているものではないため、そこから独自の考察を進めている。

・「現在完了形」の様式

 内在的誕生論においては、「私は自分が誕生した時刻を、現在より過去のどの時刻にも同定することができない」という(Ibid., 180)。確実なのは私がすでに生まれていることのみであり、誕生の瞬間に思いをはせようとしても「すでに誕生していた」ということ以上のことは明らかにはならない。これは「「現在完了形」の様式」と呼ばれる。私が誕生した瞬間は外在的にはある程度把握できるだろうが*2、内在的には把握できない。
 また、「いまこの瞬間に誕生した」と言うことも出来ない。それが言えるためには、誕生の瞬間にそれ以前の時間経験がないことを把握する必要があるが、そのあいだにも誕生の瞬間から遠ざかってしまう。「気がついたら私は誕生していた」という気づき自体、時間とともにすぐ流れ去ってしまうので、ふたたび「気がついたら私は誕生していた」と言わねばならないと考えられている。したがって、森岡は「「私の誕生」は「気がついたら私は誕生していた」という現在完了形の気づきを絶えず反芻し続けていくことによってしか把握されない」と述べる(Ibind., 182)。
 この点については、感覚的にはよく分かる気がするが、正確に理解したい。「いまこの瞬間に誕生した」と言うことが出来ないのは、「誕生」ではなく「いま」という時間概念に起因するように思える。よって、「気がついたら私は誕生していた」という気づきそのものが過ぎ去っていくのではなく、「いま気づいた」ということが過ぎ去っていくだけであって、正確には「気がついたら私は誕生していて、それに気づいたのがいつかも定かではない」ということではないだろうか*3

・「人生」

 こうした現在完了形の気づきが得られるときには「私がこれまでに経験してきたことが一気に見通される」こととなり、そうして見とおされた経験の集積が「人生」と呼ばれる(Ibid., 183)。「人生」はここで見とおされたものが未来へ向かって開かれる運動であり、内在的誕生論においてもっとも「基盤的な実体」とされる(Ibid.)。
 また、「人生」は現在完了形の気づきによって見とおされるため、その振り返りのつど「異なった相貌をもって現れる」と考えられる(Ibid.,184)。この意味(現在完了形)において、「私の誕生が振り返られるたびごとに、そのつど新たな人生が誕生するといってもかまわないように思われる(Ibid., 185)」とされている。ただし、非誕生ではなく誕生が選ばれたという「形而上学的な意味での誕生」については、一回しか起きないものとされる(Ibid.,184)。形而上学的な意味での誕生と現在完了形の意味での誕生は、ともに内在的誕生論において成立すると考えられている。
 さきほども指摘したように、ポイントは「現在」という捉えようのない時間概念にあるように思える。よって、振り返りの都度新たな人生が誕生するわけではなく、振り返るたびに「すでに生まれていた」私の人生を再確認するだけに思える。その度に「異なった相貌をもって現れる」のはそうだと思うが、だからと言って新たな(別種の?)人生と考える必然性はないように思う。昨日の自分と今日の自分の表情が異なるからと言って、新しい(別種の)自分と捉えるわけではないのと同じことではないか*4。むしろ、現在完了の気づきという性質からは「すでに生まれていた」としか言えないはずで、「新たな人生が誕生する」と言ってはいけないのではないか。

 以上、「内在的誕生論」の概要をまとめた*5。続いて、こうした考えに基づく「誕生肯定」論を、その否定と比較してまとめてみる。

2.「誕生肯定」とそれを脅かすもの

 「誕生肯定」論はかつて「死に面したときに」と考えられていたが、内在的誕生論によれば「気がついたら誕生していた」というものであるので、死の瞬間に限定することはない。また、先日の読書メモでも触れたように(詳細は居永(2016)を参照。)、振り返られた人生を丸ごと肯定すること(「人生丸ごとの肯定」居永のいう「人生肯定」)によって、はじめて「誕生肯定」が可能とされる。
 以上から、「誕生肯定」の定義は以下となる。

「誕生肯定」とは、「これまでの人生には様々な後悔があり失敗があったのだけれども、そのような人生を私がいままで生き抜いてきたことそれ自体については、生きてきて本当によかった」と深く心から肯定することを通して、「生まれてきて本当によかった」といまここで深く心から肯定することである。

「誕生肯定」とは、これまで生きてきた人生をまるごと肯定することを通して、私が生まれてきたことを肯定することである。
(Ibid., 189)

 森岡は常にこれを脅かすもの、つまり「誕生肯定」を阻害するものを念頭において議論を進めている。ここでは「誕生否定」と「破断」が取り上げられているので、触れておく。

・「生まれてこなければよかった」という「誕生否定」
 「誕生否定」とは「「こんなことなら生まれてこなければよかった」というふうに私の誕生を否定すること」である(Ibid., 190)。すでに述べたように、このようなものに他人を追い込んでいくことは根本的な悪と考えられるが、「誕生肯定とは、そのような否定に飲み込まれながらも、そこからおそるおそる立ち上がり、「やっぱり生まれてきて本当によかった」と自分の誕生を肯定することである」「(Ibid.)」という強い言葉からも、森岡の「誕生肯定」論がこうした「誕生否定」に抗する意図があることが伺える。
 この「生まれてこなければよかった」という言葉の意味について、デイヴィッド・ベネター『生まれてこなければよかった』が批判的に検討されている(森岡2013)。森岡によると、ベネターは「生まれてきたとき」と「本当は生まれてきていないのだけれどももし仮に生まれてきていたとしたとき」を比較して後者がより良い(better)とするが、これは決定的な誤謬である(Ibid., 89)。「生まれてこなければよかった」とはこうした比較によるものではなく、「自分が生まれてから今日に至るまで過ごしてきたすべての軌跡を、この宇宙から跡形もなく消し去ってしまいたいと、私がいまここで「欲する」こと」と考えられる(Inid., 90)。こうした「誕生否定」は「理解不可能であり、実行不可能でもあるような状態」とされる(Ibid., 91)。自殺しても私の軌跡が消え去るわけではないし、それらを消し去るということがそもそもどのようなことか不明である。そのような意味で「誕生否定」には深い挫折の感覚が伴う。
  以上は「生まれてこなければよかった」ということの「無化解釈」とされるが、これに対して、森岡は「別世界解釈」というもう一つの捉え方を提示している。それは、「生まれてこなければよかった」ということに何かしらの限定条件が付いているもの、例えば、「生きているのがこんなにつらいのならば、生まれてこなければよかった」といった言葉で表現される(Ibid., 93)。こうした「別世界解釈」はやはり実行不可能ではあるが、私の軌跡を消し去ることではなく、現在のような世界ではないところで生きることを望むものとして理解可能である。
 いずれにしても、これら「誕生否定」は私の生の在り方を拒絶し、否定する。「誕生肯定」はこうしたものを乗り越えて自らの誕生を肯定することである。

・「破断」
 「破断」とは、こうした辛く悲惨な経験によって、「自分の人生がその時点で暴力的に断ち切られたような状態になり、未来へと前向きに生きていこうとする力が奪われてしまうこと」である(森岡2011.,196 )。2007年の著作では、「破断それ自体」と「破断が起きた自分の人生そのもの」が区別され、前者を肯定せずとも後者を肯定することは論理的に可能であると考えていたようだ(Ibid.)*6
 さらに森岡は、人生を振り返ってみたとき、「破断」の経験があったが故に私が生きてきた人生があり、それを(全体として)肯定できたのであれば、「破断」もまた肯定を準備した一つの経験であるという意味で、「あってよかった」と思えるような場合があり得ると考える(Ibid., 197-199)。ただし、それは「破断」の経験を喜んで受け入れるというニュアンスではない。それは確かに辛い経験で二度と繰り返されてはならないし、他の人の人生においても起きるべきではないが、それでも人生を肯定出来たという意味で無くてもよかったとは思わない(なぜならそれを経験したのが私の人生だから)、といった感じのものだ。端的に表現すると、「あってよかった、だが繰り返されてはならない」となる(Ibid., 198-199)。
 以上から、「人生を生き抜いてきたことの肯定」と「人生全体の肯定」が区別され、前者は「サバイバルの肯定」と呼ばれる(Ibid., 199)。「誕生肯定」へと至るプロセスは、「サバイバルの肯定」→「人生丸ごとの肯定」→「誕生肯定」として描かれ、以下のように再修正される。

「誕生肯定」とは、私がこれまでの人生を生き抜いてきたことを肯定し、これまで生きてきた人生の内容をまるごと肯定することを通して、私が生まれてきたことを肯定することである。(Ibid., 200)

 以上、それを脅かすものと対比させながら「誕生肯定」論をまとめてきた。ここからは、自らの誕生を否定する考えにあらがおうとする森岡の強い意思を感じざるを得ない。最後に、どうして「誕生肯定」が強く求められるのか、簡単にまとめておきたい。

3.「誕生肯定」はなぜ必要か

 森岡の議論において「誕生肯定」がなぜ求められるかを理解するためには、それを脅かす「誕生否定」がどのような意味で悪と捉えられるのかを抑えておくとよいと思われる。
 森岡は、加藤秀一『〈個〉からはじめる生命論』を参照しながら、加藤が提示した「「存在否定」よりも「誕生否定」のほうが、より絶望が深い」という論点をさらに先に進めている(Ibid., 203)。「存在否定」とは単に私の存在をこの世から消し去ってしまいたいと願うこととされるが、「誕生否定」は私の痕跡をこの世からすべて消し去ってしまいたいと願うことだった。前者は自殺によって可能だが、後者はすでに述べたように、実現も理解も不可能である。「誕生否定」の深い絶望は、この「完遂できないことの完遂を私に要求する」といったところにある(Ibid., 204)。「存在否定」は「死ぬしかない」わけだが、「誕生否定」は「死んでもどうにもならない。」この絶望から抜けだすためには、「「生まれてこなければよかった」という深い後悔の念を、「やっぱり生まれてきて本当によかった」という肯定へと変えていく」ように生きるしかない(Ibid.)*7
 つまり、こうした「死よりも深い絶望」にあらがうために、「誕生肯定」が求められると森岡は述考えていると思われる。


 以上、森岡の「誕生肯定」論をまとめてきた。全体として念頭に置いている精神のようなものは分かる気がするが、そのうえで「誕生肯定」の意義に関してはやや疑問が残る。
 誕生から人生を見通すといったモデルが描かれるわけだが、「誕生」ということを言う必要があったか、話が進むにつれてよく分からなくなってくる。現在完了の気づきは「気がついたら私は生きていた」ということでもいいような気がするし、それによって今まで経験してきたことを見通すこともできるだろう。「誕生」という契機から人生を見通す必然性はなく、それが基盤的実体とされるならこれは「内在的人生論」でもいいように思う。
 そもそも、森岡の考えは実は(その立論とは逆に)「誕生」ではなく「人生」への関心から始まるものではないか、という気がする。「生まれてこなければよかった」という言葉は確かに死より深い絶望だろうが、結局のところ「人生丸ごとの肯定」が出来ればそれでよいのではという気がする。
 というか、「人生丸ごとの肯定」が出来たならば、必然的に自らが産まれたことも肯定することになるのではないか。そうではないというなら、私の「誕生」は私の「人生」の外側にもあるということになる。そう考えることは可能に思えるし、私の人生の外側も含めて(具体的には出産までの親の苦労や愛情も含めて)否定するからこそ「誕生否定」は克服すべき悪なのだろうが、そう捉えることは「産む」側の視点や立場が「生まれる」私の視点や立場と混ざり合ってしまっているように思う。もっと言えば、親の「私(たち)が産んだことを否定されるべきではない」という思いがそこには入り込んでいるような気もする(それは子からすれば親のエゴとも言えるだろう)。
 この点、「誕生肯定」と「人生まるごとの肯定」を区別した居永の考えに妥当性を感じるところだ。もちろん、「産む」ことも肯定されるにこしたことはないだろうが、「私が生まれたことは肯定も否定もしないが、私の人生はまるごと肯定する」という境地に至れば*8、死よりも深い絶望であるところの「誕生否定」における悪は十分克服できるように思える。
 ところで、森岡は「生まれてこなければよかった」という言葉に「無化解釈」と「多世界解釈」という2つを考えていたが、後者に対して考える「誕生肯定」について、興味深い指摘をしている。そこで誕生肯定は「現状とはまったく内容の異なる世界がもしあり得るとして、たとえその世界では私のかかえている深刻な問題が解決されていたとしても、そのようなあり方を持つ世界のなかに私は生まれてきたかったと私がいまここでけっして心から欲したりしないこと」と考えられている(森岡2013., 101)。つまり、これはたとえ現状より自らが恵まれている、あるいは望ましい世界がありえたとしても、そうした世界に生まれてくることを望みはしない、ということだ。自らの人生を肯定してるからといって、今生きている世界が自分にとってもっとも素晴らしい最高の世界だというわけではない、という指摘はその通りだと思う。しかし、そのような場合でも、そうした素晴らしい最高の世界に生まれることが出来ていたなら、やはりそちらに生まれたかったと考えても不思議はないのではないか。
 現に私は私の人生に満足しているし、心から私の人生を丸ごと肯定できるし、している。それでも、あえてもっと素晴らしい人生を送ることのできる世界に生まれることも出来たと考えるなら、そっちに生まれたかった。こういう考えは決して自分の人生を否定していないし、死よりも深い絶望に落ちていると思えない。この議論においても(興味深い考えではあるが)、誕生肯定の意義がやはり疑問になる。

 全体的に森岡の議論はやはり「私が私を肯定すること」が主眼にあるように思えた。その意味では、前回まとめた産出義務の話とは、「産み」や「誕生」を見る視点が異なる。次回は最後に森岡の「産み」の概念の考察をまとめる。

*1:その他、愛する家族を殺されたりといった決定的な「破断」を含んだ人生を全面肯定できるのか、自己肯定できない人が世の中に多くいるのに自分だけが「誕生肯定」できるのか、といったことが2007年の著作では論じられているようだ。

*2:とはいえ、それはそれで「どの時点をを誕生と捉えるのか」という難問はあると思うが。

*3:森岡の説明だと「あ、誕生していたわ」「あ、誕生していたわ」という気づきが延々と繰り返されるように読めてしまう気がしないでもないが、「あー、そういえば誕生していたんだよな~」という気づきに立ち戻ることが幾度となくある(いつの間にか私はそれを知っていたようである)、というイメージがしっくりくる。

*4:ただし、昨日の自分と今日の自分が果たして同じ自分なのか、という同一性を懐疑するような意味では、気づきのたびに新たな人生となると言えるかもしれず、森岡はそのような意図で述べているかもしれない。とはいえ、その場合も「新しく産まれる」と捉える必然性はないように思える。

*5:その他に考察が端緒のみ示されているものとして、「私は誰によって誕生させられたか」という問いが思考の限界に置かれる(「何か分からないところから産まれた」として理解するしかない)という点、生まれてきたことに関して受動的な位置取りしかできないという点がある(森岡2011., 186)。

*6:ただし現実的には非常に困難なことであることをは森岡も認めている。

*7:森岡は、「生まれてこなければよかった」という言葉の意味を検討する中でも同様の議論を進めている。そこでは、「死によってすべてが無になってしまうのなら、生まれてこなければよかった」という考えが検討されている(森岡2013, 97‐99)。「死によってすべてが無になってしまう」という問題も、自殺によって解決されるものではない。しかし、生まれてきていなければ死によってすべてが無になることもないのだから、「「私が生まれてこないこと」によってのみ、「死によってすべてが無になってしまう」ことが完全に予防される」と考えられている(Ibid., 98)。

*8:実際、森岡は「人生まるごとの肯定」から「誕生肯定」へとジャンプするのはどうしてか、それによって何が達成されるかという問題にも触れている。しかし、それについての暫定的ではあるが森岡の答えは「、「私はなぜ生まれてきたのか?」という問いに答えようとして立ち上がるときに、私は新たな段階へと引き上げられる。そして、「私はなぜ生まれてきたのか? それは私が誕生肯定を得るためである」と答えることができるようになる」というものであり、森岡自身も認めるように不十分だろう(森岡2011., 206)。