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森岡正博(2015)「「人生の意味」は客観的か-T・メッツの所説をめぐって ― 生命の哲学の構築に向けて(7)」

 今回のまとめは以下の論文です。

森岡正博(2015)「「人生の意味」は客観的か-T・メッツの所説をめぐって ― 生命の哲学の構築に向けて(7)」『現代生命哲学研究』第4号、pp.82-97

 サディアス・メッツ(Thaddeus Metz)『人生の意味:分析的研究(Meaning in Life: An Analytic Study)』を批判的に検討しながら、「人生の意味」の問題を考察するものです。たびたび触れている「誕生肯定」論とも関係してくる内容かと思います。


 メッツ『人生の意味:分析的研究』は「英語圏における「人生の意味」についての哲学的議論を総ざらいし、論点をクリアーに整理して、このテーマに関する哲学的議論の見取り図を作成した重要な業績(83)」であるという。その中でメッツは「人生の意味」を考察する立場を3つに分類して検討しており、そのうち1つを自らの立場として提示する。
 本論文では、こうしたメッツの立場を確認し、その問題点を指摘しながら森岡自身の「人生の意味」に関する考察が展開される。以下のようにまとめていく。

1.「人生の意味」を考察する3つの立場
2.メッツの「基盤主義理論」とその問題点
3.「人生の意味の中核部分」を問うという本質

1.「人生の意味」を考察する3つの立場

 メッツが「人生の意味」を考察する3つの立場として挙げるのが、「超自然主義」「主観主義」「客観主義」である。
 「超自然主義supernaturalism」は、「「人生の意味」を超越的なものとの関係性、たとえば神との関係性において把握しようとする立場(83)」である。一方で、「科学的な方法によって知ることのできる時空、すなわち純粋に物理的な世界において人生は有意味なものになり得る(84)」と考えるのが、「自然主義naturalism」である。さらに、この自然主義が「主観主義」と「客観主義」に分かれる。
 「主観主義subjectivism」は文字通り人生の意味は主観が与えるものだと考えるが、このとき主観とは「「命題的態度propositional attitude」を取ることのできるような主観のあり方」、言い換えると「ある命題の形を取った対象を欲求したり誇りに思ったりすることができるような主観のあり方」である。こうした立場の問題点を、メッツは「本人がそれに満足していたらたとえどんな内容の人生であったとしても意味があることになる」ことだと指摘しているという(84)。
 メッツが最終的に擁護するのが「客観主義objectivism」だ。客観主義によると、「人が自分の人生に満足しようがしまいが、そのようなこととは関わりなく、その人の「人生の意味」はある程度客観的に決まる」とされる。そして、客観的に意味を持つ人生とは、「善・真・美を兼ね備えた人生」ということになる(85)。

2.メッツの「基盤主義理論」とその問題点

 以上のように、メッツは「人生の意味」を客観主義的な立場から考えるが、そこで示される「人生の意味」論とは「人間の行為は、人々が生きていくうえでの基盤的諸条件の向上に寄与する程度に応じて意味を持つ」という「基盤主義理論fundamentality theory」である。メッツは、これらの基盤的諸条件を真・善・美に即して考え、そこではマザー・テレサアインシュタインピカソ等の人生の意味が客観的に大きいものとして例示される。
 森岡によると、メッツの基盤主義理論や「人生の意味」についての客観主義は「「人生の意味」という概念の持つ、ある中心的な意味内容を捉え損ねている(87)」という。メッツはマザー・テレサなどの偉人の「人生の意味」が、凡人のそれよりも大きいと考えるわけだが、それは客観主義に基づき「人生の意味」をそれぞれ比較することが可能だと考えるからだ。しかし、そう考えると「「人生の意味」は、ある人間に帰せられる「社会的な価値」とほとんど同じものになる(87)」と森岡は指摘する。
 「人生の意味」というものが問題となるとき、決して「社会的な価値」が問題となっているわけではない。森岡の考えでは、それは「私が自分自身の人生を生きていくことの真の充実をその底から支えてくれる足場となるものが実は不在なのではないかと実感したときに、心の底から叫ばれる問い(88)」であり、社会的な価値の大きさとは関係がない。そのため、メッツが大きい「人生の意味」を有するとするマザー・テレサ等の偉人たちもまた、「私の人生に意味はあるのか?」と問うことが可能とされる。
 こうしたメッツの基盤主義理論の批判から、「人生の意味」という言葉の意味が以下のように捉えられる。

人間というのは、たとえ社会的な価値に乏しいとしても、それにもかかわらず最高度の「人生の意味」を与えられる可能性がある、という人間存在の不思議を言い当てるために導入された言葉こそが「人生の意味」なのだと私は考える。(89)

 そのうえで、「私の場合において問われたものこそが、人生の意味の中核部分にあるものである」「人生の意味は他と比較することはできない」という2つのテーゼを提出する。特に1つ目のテーゼにおける「人生の意味の中核部分」という概念は需要なキーとなる。

3.「人生の意味の中核部分」を問うという本質

 「人生の意味の中核部分」とは、「現に生きているこの私の人生について問われた人生の意味の問い(90)」とされる。要するに、「私の人生」について問うことである。森岡の考えでは、この「人生の意味の中核部分」を抜いた人生の意味への問いは本質的な部分を取り逃している。つまり、私が「私の人生」以外の「人生の意味」を問うことは、「人生の意味」を問う営みとしては何の意味もないのだ(それは単に「社会的な価値」を問題としているだけということになる)。
 2つ目のテーゼに関しては、1つ目のテーゼから容易に導き出せると思われる。私は他人の人生について「人生の意味の中核部分」を問うことはできないので、私の人生の意味と他人の人生の意味、また、複数の他人の人生を比較することも出来ない。
 ユニークに思えるのは「私のあり得たかもしれない他の人生の意味を問うことはできない(92)」と考えられていることである。私が日本人であるならば、アメリカ人として生まれた私の人生を今の私の人生と比べることはできない。私は現に生きている私の人生についてのみ、その「人生の意味」を問うことが出来る。「人生の意味」についてはあらゆる比較が無効と考えられている。
 以上から、「人生の意味」を問うことは「肯定か否定かのいずれかの答えだけ(92)」ということが明らかになる。この問いはあらゆる比較を受け付けないため、メッツが客観主義から述べたように、偉人たちの人生の意味が凡人の人生の意味「より大きい」といったことは言えないからだ。要するに、「私の人生には意味はない」か「私の人生には意味がある」か、いずれかの答えしかありえないということになる。こうして、「人生の意味」に関する議論は森岡の「誕生肯定」論とつながる。

「人生の意味」の問いは、その中核部分において、「生まれてきたことを肯定するとは何か」という「誕生肯定」の問いに接続しているのである。ここにおいて、「人生の意味」の哲学は、「誕生肯定」の哲学と結び付くことになる。(93)

 こうした考えに対しては、メッツから主観主義に対するものと同じ異論が出るだろう*1。すなわち、「本人がそれに満足していたらたとえどんな内容の人生であったとしても意味があることになる」というものだ。
 私以外の人生の意味について問うことは越権行為なのだ、と森岡は考えている。どんな内容の人生であったとしても、私が私の人生の意味にイエスと答える(「誕生肯定」をする)のであれば、それについて私以外の人間が何か口をはさむ権利はない。森岡は、ヒトラーのような人生(他人を傷つけるような人生)に対しても、「「お前の人生に意味などない」と言うとすれば、それは明らかな越権行為をしていることにならざるを得ない」と述べる*2。ただし、それは人を傷つける行為や、そうした人生が倫理的に許容されるということでは決してなく、「「人生の意味の中核部分」と「人生の善悪」はお互いに関わり合ってはいるもののその存在論的身分においてはクリアーに切り分ける必要がある」と考えられている(96)。


 現時点で、残念ながら「人生の意味」を論じる意義をあまり見出すことはできなかった。どちらかと言えば、本論文は森岡の「誕生肯定」論の一部として読むのがいいのではないかと思う。
 客観主義を退け、(主観のうちに閉じた考えではないにしても)基本的には主観主義的な立場をとる森岡の考えは、「人生の意味」を問うのは私でしかありえないし、問いの対象は私の人生でしかありえない、というものだろう。そこには、私の人生と誕生を肯定することが出来るのか、という強い問題意識があるように思える。ただし、以前の記事でも指摘したように、私自信を肯定的に捉えるという目的自体には強く共感できるものの、「誕生肯定」というものが必要なのかは疑問が残る。
 次回の論文も「誕生肯定」論に関係してくるので、今回のコメントは控えめで。

*1:森岡自身は自らの立場を「けっして主観に閉じた論ではなく、主観的な意味を実現するために客観的な文脈が大きく寄与することを認めるような主観主義(89)」と述べている。

*2:ただし、「他人を傷つける人生においても「人生の意味」はあるのかという問題」については「ていねいに考察しなければならない」と慎重な態度が示されてはいる(94)。