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森岡正博 (2016)「「誕生肯定」と人生の「破断」を再考する ― 生命の哲学の構築に向けて(8)」

 今回のまとめは以下の論文です。

森岡正博 (2016)「「誕生肯定」と人生の「破断」を再考する ― 生命の哲学の構築に向けて(8)」『現代生命哲学研究』第5号、pp.13-27

 今回も、森岡正博さんの「誕生肯定」論と関係する内容、というよりは以前の議論を補う内容になっています。「破断」を中心とはしていますが、「誕生肯定」論全体にも多少のアップデートが見られます。



 本論文は、「誕生肯定」の概念をめぐる過去の議論を補うためのものとされている。議論の中心は、「自分にとって過酷な出来事が起きたときに、自分の人生がその時点で暴力的に断ち切られたような状態になり、未来へと前向きに生きていこうとする力が奪われてしまうこと(16)」である「破断」についてだが、まずは「誕生」や「人生」といった概念に微修正が施されている。
 以下のようにまとめていく。

1.「誕生」概念の再考
2.「誕生肯定」と「破断」の関係
3.加害者の「誕生肯定」をどう考えるのか

1.「誕生」概念の再考

 森岡は、まず「誕生」「人生」といった概念の微修正を図っている。順に引用する。

「誕生」とは、「気がついたら私は存在していた」という現在完了形の気づきが起きたときに、私のこれまでの人生が一気に見通されていまここで生成することである(13)

「人生」とは、「気がついたら私は存在していた」という現在完了形の気づきによって、そのつど呼び起こされ、一気に見通される、私の経験の集積のことである(14)

 さらに、「誕生」には「現在完了形の気づきによってもたらされるという「現在完了形の側面」」と、それが「「いま」「生成する」という「いまの生成の側面」」があるとされる(14)。
 森岡は過去の論文において振り返るたびに起きるという現在完了形の「そのつどの誕生」と、形而上学的な意味での「一回限りの誕生」という2つの側面を論じていた。「その都度の誕生」ということでは振り返るたびごとに複数回の誕生が起きるようであるが、そうではなく「「そのつど」は何度でも起きるけれども、「そのつど」の振り返りによって起きる現在完了形の誕生は「一回限り」」「複数回振り返るそのたびごとに起きる誕生の回数の総計は、不思議なことに「一回限り」」とされ、誕生とは「「気がついたら私は存在していた」という現在完了形の気づきが起きるそのたびごとに、たった一回限り、いまここで生成している」と考えられている(15)。
 以前の読書メモでも似たようなことを述べたが、普通に考えれば私は「いまここ」で気づきを得ているだけであると思われる。よって「いまここ」で誕生が生成していると考えることの妥当性には疑問が残るし、そもそも誕生の「いまの生成の側面」というものにも疑問が残る。同じことを繰り返し述べておけば、私は振り返るたびに「すでに生まれていた」私の人生を(新たな相貌をもって現れるものとして)再確認する(気づきを得る)と考えて差支えないように思う。
 以上、「誕生」「人生」といった概念の微修正を確認した。続いて「誕生肯定」と「破断」の関係についての補足を確認する。

2.「誕生肯定」と「破断」の関係
 以前の論文における「破断」について、森岡は以下のような流れでまとめている。

「破断」という出来事それ自体はけっして肯定できないが、「破断」をくぐり抜けて私がここまで生き抜いてきたことについては、それを深く心から肯定することができる、というようなケースがあり得る

「破断」は、肯定された私の人生の不可欠のピースとして組み込まれているという点において、「あってよかった」というふうに思えるようになる可能性がある

「破断」あるいは「破断を導いた出来事」は「あってよかった、だが繰り返されてはならない」
(16)

 これに対して、「「破断」と、「破断」を導いた出来事をクリアーに区別していなかった」ことが指摘され、両者が明確に区別される。「破断」は「虐待や繰り返される暴力などのような、自分にとって過酷な出来事が起きたときに、自分の人生がその時点で暴力的に断ち切られたような状態になり、未来へと前向きに生きていこうとする力が奪われてしまうこと」であるが、この場合「「破断」を導いた出来事」とは虐待や繰り返される暴力ということになる(16)。
 「破断」を起こした出来事はあくまで私の外部の出来事であるが、「破断」は「外部からの介入に対抗する形で私の人生の内側から生成されたもの」である。「誕生肯定」において「破断」は人生の不可欠のピースとして受け入れられると考えられている。森岡はそれを「人生の肉」とも表現し、「いまを前向きに生きようとする私の一部となって、私と同じ方角を向いてそちらへと人生を推進させるエンジンとして働き得るようになる」と考えられている(17)。
 こうしたことがいかに可能になるのか。森岡は「哲学にできるのは、「破断」が人生に組み込まれることが可能であることを論理的に示し、その可能性を保証することにとどまる(18)」と抑制的に述べているが、その道筋を自身の提唱する「生命学」の営みと関連させ、「自分をけっして棚上げにしないこと、そして他者たちとともにつながること」に求めているようである。特に、「破断」をかかえる人生を肯定するためは、「同じような「生きづらさ」や「破断」をかかえた人たちとつながり、ささえあっていくことが力となるはずである(19)」とされ、その利点が2つ挙げられている*1
 1つ、自らと同じように「破断」をかかえた人生を肯定することを願っている人たちと交信することにより「私は「自分はけっして一人ではない」「この世には同じ課題をかかえて同じ方向へと進もうとしている人がいる」という確信」を得ることが可能であるということであり、この確信は「「破断」をかかえたまま誕生肯定を目指そうとしている私を、その最底辺において支える」ものとなり得るとされる(20)。もう1つは、「私と同じ道を私よりも先に進んでいった人間たちや、私よりも遅れて進みはじめた人間たちとつながることができる」ことである。
 森岡は、水俣の人たちと福島原発事故の被災者の若者たちの出会いの記述を引用し、その時に起きたことが「「破断」を人生の不可欠なピースとして組み込もうとする次元で起きた、人と人との出会いであり交信(21)」と考えたいと述べる。こうした次元において人々がつながり交信することに、「誕生肯定」への希望が見出されている。

3.加害者の「誕生肯定」をどう考えるのか

 ところで、こうした「破断」と「誕生肯定」をめぐる議論においては、しばしば「では犯罪の加害者が誕生肯定を行なうことができるのか、もし加害者が誕生肯定を行なったときにそのことを我々はどう考えればよいのか」という疑問が投げかけられるという(22)。森岡は今の時点で十分に答えることができないとしつつも、いくつかのケースに分けて見通しを立てている*2
 まずは、「加害者の加害行為が加害者自身にとって「破断」となっている場合(23)」である。これは加害行為によって加害者自身も苦しみ、未来へ生きていこうとする力が奪われてしまったような状態になるケースだ。この場合も当然、「誕生肯定」に至るプロセスで「破断」を人生の不可欠のピースとして受け入れねばならないが、「「破断」を導いた出来事については、「それは起きるべきではなかった」として否定される」と考えられる。つまり、「加害者の誕生肯定は、被害者の誕生肯定とは異なり、「破断」を導いた出来事についてはけっして肯定に転ずることがない」のだ(23)。
 続いては、「加害者の加害行為が加害者にとって「破断」となっていない場合(24)」である。これは、加害行為に対して反省や後悔などで生きる力を失うほど深く思い悩むことはなく、生まれきてよかったと「誕生肯定」をするようケースだ。これを「誕生肯定」と呼んでもいいのか。森岡はこれに答えるのは非常に難しいとしながらも、「それはやはり「誕生肯定」と呼ばれるべきであると私はいまのところ考えている(25)」と述べる。人生の内容がどのようなものであれ、「誕生肯定」は「誕生肯定」であり、そこに本物や偽物などがあるわけではない、というのが森岡の考え出る。
 ただし、このことはいくつかの問いを突きつけると森岡は指摘する。①「破断」の経験を経ない加害者の誕生肯定を我々は許せるのかという問題、②「破断」の経験を経ない加害者の誕生肯定を社会はどのように取り扱えばよいかという問題(25)、そして、③そもそも誕生否定を経ることのない誕生肯定とはいったい何なのかという問い(26)、である。


 「誕生肯定」論や生命の哲学において、「破断」の議論は重要かもしれないが、あまり個人的な興味関心からは触手が伸びないテーマではあった。もちろん「破断」自体は生きる上で重要な問題だろうし、それを乗り越えるということは非常に重い倫理的実践だろう。
 少なくとも、哲学を「破断」を乗り越えるための「救い」のようなものとして求めてしまうのは非常にまずいのではないかと思う((それはおそらく森岡も同意する気がする。)。もちろん、「救い」の道を示すことはあるだろうが、そうであっても「破断」の克服は、まさに自分が生きていく中で、倫理的な実践の中でしか達成されないはずだ。
 以下、「破断」もしくは「誕生肯定」論について気になったことを3点ほど残しておく。

・加害者の「誕生肯定」がなぜ問題となるか

 今回の論文は、最後のほうで加害者の「誕生肯定」を許容できるかどうか、といった論点が扱われていたが、個人的にはこれが問題となる理由がいまいちわからなかった。
 もちろん、心情的には理解できる。だが、前回の記事で「人生の意味」が私にとっての私の人生についての問題でしかないとされていたように、「誕生肯定」論においても私にとっての私の誕生が問題となっているように思う。だとすれば、どれだけ憎い相手や凶悪な犯罪者が「誕生肯定」に至ったとしても、「あなたの誕生は肯定されるべきではない」など誰にも言えないということにはならないだろうか*3
 問題は、「破断」を起こしたような加害者(私)に「誕生肯定」など可能なのか、あるいは、「破断」を起こした加害者が「誕生肯定」している(かのようである*4)場合に当の被害者(私)が「誕生肯定」が可能なのか、と言うことであるように思う。
 なお、以前の記事で触れた居永による森岡批判で、「誕生肯定」は私自身ではなく他人に委ねるという形で考えられていた。居永のような考えであれば「相手が加害者であっても私たちは誕生肯定するべきか」という問題設定が出来るだろうと思う。

・「人生肯定」なき「誕生肯定」はないのか

 たびたび指摘しているように、「誕生」ではなく「人生」が中心の考えなのではないか、という疑問がある。その証左かもしれないものとして、「人生肯定」なき「誕生肯定」が想定されていないように思える、ということが気になった。
 まずもって「人生肯定」があり、その先に「誕生肯定」がある、というのが森岡の基本的な考えに思える。しかし、「私は私の人生をどうしても心から肯定できないが、私が生まれてきたこと、この世に生を受けたこと自体は本当に良かったと思えるし、間違っていなかったのだ」という考えは十分成立するように思う。
 それを想定していないように見えるのは、やはり森岡の関心は人生をいかに肯定するかということであり、言うなれば「誕生肯定まで達成されなければ、真の人生肯定はあり得ない」といった考えがあるからではないかという気がする。その時「誕生肯定」とは「私が私自身の誕生を心から祝福し、肯定する」という意味であって、それが出来ないのであれば人生肯定とは言えない、という考えというのであればよく分かる。ただ、やはりそれならこの議論は本質的に「人生肯定」を論じたものではないか、と思ってしまう。

・私の「誕生」は私のものか

 こうして考えていくと、「誕生」と「人生」は根本的に別のものではないか、と言う気がしてくる。正確にいえば、森岡の「誕生」概念は(私の)「人生」と関係する限りにおいての「誕生」ではないか、と思う。おそらく居永の森岡批判のキモもここにある気がする。
 私は現在完了形の気づきにより、「気が付けば存在していた」という形で自身の「誕生」を知るだろう。だが、ここには私には決して捉えきれない「誕生」の姿が潜んでいるように思う。なぜなら、ここで私は「私が気が付く以前に既に私は誕生していた」ことを知るのだから、私の「誕生」には、私には決して理解することも捉えることも出来ない部分があることにならないか。単純に言えば、私の「誕生」は私だけのものではないのではないか。
 森岡はあくまで私のものとしての「誕生」を扱っているのではないか、ということを感じる。

*1:ただし、詳細は語られていないものの、「「破断」をかかえた者が、他の「破断」をかかえた者へと接近することは、多大なる危険をはらんでいるし、その危険についてはこれまで何度も指摘されてきた。」という留保がつけられてはいる。

*2:森岡の区別では3つだが、実質2つであるように思われる。

*3:再度述べておけば、加害者の「誕生肯定」が容易には受け入れがたい、ということは心情的には理解できるし、加害者がいるような「破断」に直面した彼岸者の立場に寄り添えば、この問題を重要なものとして扱うことは必要なのかもしれない。しかし、森岡の考えからは他人が私の「誕生肯定」に成否を下すようなことはあってはならないように思える。

*4:単純な話、私以外の人間が「誕生肯定」しているか否か、ということの判断は難しいように思う。ほとんど印象でしかないのではないか。